ゆめくいしょうじょ
余りに残酷で、この世に神様はいるんだと思っていた僕が間違っていたのか。そんな事、親にも、友達にも、この世の誰にも分かりはしない。心の中の自分が、勝手に反論する。
大学までは一駅分くらい歩けば十分だ。たまの徒歩通学には理由がある。家を出て、駄菓子屋を横目に坂を行き、踏切を渡れば、後は左右にブロック塀が並ぶだけの殺風景な一本道。
疾走する二曲目が耳の中で静かにフェードアウトする頃、ブロックから溢れんばかりに(というか道路にはみ出している)、僕の右手に手を伸ばそうとする植物のあるこの家までたどり着く。
僕はこの花を眺めるのが好きだ。人の家のものだ。無遠慮に触ることはできないけれど、余りに綺麗なので思わず香ってみたことはある。土や葉の匂いしかしなかったけど、満足した。地面に届きそうな程、隆々とした紫の花の群が、今朝もそんな風に僕を迎えた。(花にそんなつもりは全くないだろうが)
僕はこの花が好きなんだ。
今日も講義は終わる。皆一斉に教室を後にする。もうめんどくさくて動きたくなかった。女性達が何言か言いながら、教授を取り囲む光景を見て、前期試験が近い事を思い出す。僕がどうだろうと現実は廻っているんだよなぁ、と更に心は沈む。
「…あ」机に突っ伏して、眼鏡を外した時に気付いた。黒色のつるに白くハッキリ刻まれていたはずの、英数字。コレ採寸にずっと役立つんだったっけ、掠れ切って今じゃ全然読めない。これじゃ無意味だな。みすぼらしい。だけど気がどこまでも沈むのは、こういうどうでもいいことのせいじゃない……。
「あの、」
「わっ!」僕は思わず声を上げてしまっていた。片付け損ねていたペンを床にバラバラッと跳ね跳ばし、起きた。
声を掛けてきた男が、あーぁ、と言いながら屈んでひょいひょいと拾い、ペンをまるで花束みたいにして、差し出して来た。
「今日、サークル来るよね?俺、学部は違うけど、この講義で見かけたことあるからさ」「あぁ、」
…とりあえずよろしくって事か。
「よろしく。僕の友達とよく一緒にいるみたいだけど、勧誘されたの?」
「勧誘…というか、」
視線を反らし、鼻の下を軽く擦っている彼の仕草が僕の予感を確信に変えた。…そうだよ、では済まないのか。
僕はその日、サークル棟(各部室が数階分集まっている建物だ)まで行って、心を傷付けたまま帰路についた。特に音楽を聴く気にもなれなかった。間もなく夕闇にも隠れることなく美しい、紫の花が見えてきた。
左手に、拒否されないだけの花弁を、そっと手のひらで支えてみる。…あたたかい。暗くなってひと目につかないことを良いことに、ブロック塀に凭れ、目を閉じる。小さな龍のように垂れ下がる花の陰に守られて、立ち尽くした僕は泣いていた。記憶が蘇る、光景が蘇る。
彼女は僕のものだった訳じゃない。ブーゲンビリアが好きだと言った彼女の絵に惚れていただけだ。
ブーゲンビリアが偶然、近所に咲いていたからといって、運命だなんて思った訳じゃない。ブーゲンビリアの花言葉を知ってる?と僕に聞いてきた彼女の質問に特別な意味があった訳じゃない。二人で見た夜明けの空を、これはどちらかといえば紫陽花の色だねなんて例えた事にも意味はない。あの夜にも意味はない。サークル棟の螺旋階段を上ろうとしたら彼女と男が手を繋いでいたとて、きっと意味なんてない。
全部、全部、意味はない。
嗚咽を抑える。眼鏡が涙で真っ白で、滲んだ紫色しか見えない。どうでもよかった。首筋まで伝ってくる涙はあたたかい、その感覚だけが残っていた。
余りに残酷で、神はこの夢を見る男を永遠に目覚めないようにしてくれはしまいか。そして、せめて夢の中では、僕に祝福を。
花びらを温かいシャワーみたいに降らせるのなら、彼を癒せるのかしら。誰が何と言おうと、私はあなたの味方。人は残酷ね。人は生きてるから、何度でも夢を見れる。けれど、私は絶望すれば枯れてしまうのはあっという間なの。だから、私が枯れてしまう時には、あなたが曖昧な笑顔で見せてくれた全ての記憶を、私が全部持っていってあげる。
あなたとの時間は、私には祝福だった。いつも楽しそうに聴いてたあの曲を、これからも口ずさんでほしいの。何度でも、話を聞かせてほしいの。愛してる。
通学路のブーゲンビリアが、ポンッと、ひとりでに揺れた。
僕は泣き疲れたのか、永い永い眠りから覚めた。心の奥で頑なになっていた蕾が、少しずつ少しずつ開いて、大きな花びらに丸ごと包み込まれるようだった。色だけは覚えてる、絶対に赤みがかった紫だった。
これまで感じたことのないあの胸の、この夢の温度を、忘れたくない。ベッドに腰掛けたまま、あっという間に薄れ続けるこの不思議な感触を抱き締める。
今朝も、あの花に会いにゆこう。
僕はこの花が好きなんだ。(End.)
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