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娘が母を殺すには(読書感想文)

三宅香帆さんの著書「娘が母を殺すには」の感想文を書こうと思う。私も(どちらかというと)母と確執のある方の娘なので、落ち着いて考える良いきっかけだった。

母親という生き物

私の母は感情の振り幅が大きく、論理とは一番遠いところで一生懸命生きてるタイプの人間だ。感謝はしているが、同時に消化しきれない反発が私の中に(ディスポーザーで粉砕されなかった繊維質の塊のように)残り続けている。自分が母になることがわかった時は、「母のようには絶対にならない」と誓ったのを覚えている。

しかしながら実際の子育てはそんなに簡単ではなかった。自分の限界を試され続けるのだ。

「トイレは何時間まで我慢できるか」
「人間はまとまった睡眠を取らずに何日間生きられるか」
「耐久だっこで腰痛の限界を試す」
「乳首の痛みの極限を責める」
「作った料理を床に捨て続けられたときの精神的限界を測る」
「意思疎通の叶わない人間が2人で一つの部屋に閉じ込められたら何日耐えられるかやってみた」

私にとっての乳児育児はそんな感じだった。
これだけ苦悩したからには我が子が多少はかわいく思えないとやってられないってもんだ。

月日が進むと、少しずつ子供も手がかからなくなってくる。でもストレスが右肩下がりに減るわけではない。

子供はもともと、「境界線」をきちんと明示してくれることを好むらしい。
ここまではやっても良いけど、ここからは、明確にダメ。その境界線を知るために、彼らはこちらの限界を試し、大人の反応をよく観察している。
(逆に境界線が人や場合によってブレるときこどもは非常に混乱するらしい。)

叱っている自覚があるあたりではまだ余裕で、そのうち腹の底から怒りが湧き起こってくる瞬間がある。
頭に血が上り血圧も上がり、一体なぜこんなにも私は無力なのか!?と全世界に叫びたくなる衝動を、ありったけの憎しみを込めて子供にぶつける。言葉で理解を得られない場合、最悪、手がでる。バシン!

はぁ、はぁ、と血走る涙目の自分と、もっと大泣きしている子供。
この状態から何をどうすればまとまるのか。(ほとんどの場合は子供の主張を無理やり抑え込んだ形で終結する。ー 「これをすると母がキレる」という事実以外何も伝わらずに)ああ後悔。他にやり方がなかったことか。

三宅さんが指摘したのは「母の規範からの逃走」イコール母殺しである、ということだった。私が子供たちに示そうとしている規範は一体なんなんだろうか。

私の母の規範

私の母の規範を思い出してみよう。

母親が大変であることは身をもって理解できた。それでも私は母に対する半ば呆れのような苛立ちを今でも感じる。彼女が何かにつけて「あなたのために」と言ってする行動が多く、それに対して無責任だと感じるからだ。

彼女は、自分に対して使う時間がゼロになるまで人に対するケアを行わなければならないと思っていて、かつ私にもそれを遠回しに強要してくる。ケアは100%女性の仕事だと思っている。
なぜ母親とはこんなにも自分が正しいことをしていると信じて疑わないのであろうか。

三宅さんのいうとおり、私は、この母の規範から強烈に逃れたいと思っている。私はもしかしたらまだ反抗期なのかもしれない。

私の規範

私のこどもは、私のことをどう思っているのだろうか?私がこどもに示している規範はなんなんだろう?

私は以前に記事で、こどもに伝えたいことを書き出した。

でもこれはすごくアドバンスドな方で、手前にはもっと基本的な、社会で生きていくためのルールを教える必要がある。全てを家庭が担うわけではないがその役割が大きいことは否定できず、しかも負担は大きい。

私は、母に渡された規範の中で、必要なものだけ残しておいて、不要なものは燃やすつもりでいる。(会う度規範が渡され続けるので、燃やすのも大変だ。)だが私が子供に渡そうとしている規範に潜むマイクロアグレッションは、(恐ろしいことに)私自身は気づいていないのだろう。後になって子供に「お母さんのこういうところがいや」とか、言われて初めて気づくのだ。私はきっと母を「再生産」するタイプの母だ。

母を殺すことと、こどもに殺されること

本書において、最終的に母殺しの達成は「母の規範を超越する自己や欲望」をもちそれを達成することと同義であるとしている。この定義を読んで納得した。自分の中で今の上司と出会って母より圧倒的に強く論理的かつ魅力的な規範が存在し、それを適用して良いということを知った経験から、まさに親からの自由を得た気持ちを味わったことがあるからだ。(本当のことを言うと強力すぎたため上司の規範もある意味最初は強制めいてはいたが。)
今となっては、母に渡され続ける規範の中で矛盾していたり破綻していることを冷静に分析できるようになりつつあるし、その規範を本人の目の前で明確に拒否できるようになってきた。別に全てを拒否するわけではないし、結局のところ私自身もまだ母に甘えているところがあるのだろうと思う。

自分の子供が私の規範(私が絶対的に正義だと信じていること)にNOを突きつける日がやってくるのだろうか。そのとき私は狼狽するかもしれない。

だが、そこまで大きく育ってくれたならば、喜ぶことにしたいと思ったのだった。

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