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#31 人間に与えられた3つの力

ナマステー。

聖典ヴェーダによれば、人間には3つのシャクティ(力)が与えられていると言われます。

ジニャーナ・シャクティ 知る力
イッチャー・シャクティ 望む力
クリヤー・シャクティ 行う力

「自由意志を使った行いができること」がヴェーダにおける人間の定義なので、これら3つの力は、人間を人間たらしめる力と言えます。

行い(カルマ)とは、「自由意志による選択」のことであり、選択は願望に基づいて起こります。

願望は自由意志とは関係なく、5つの感覚器官と外側の世界の関わりで自動的に生まれます。

小さなものから大きなものまで、願望の数は無数で、その全てを叶え続けることはできません。

「したいことをしたいだけする」ことが自由のように思われがちですが、全ての願望を叶え続けたとしたら、あまりに忙しく、とても不自由な生き方です。

自由とは、願望をきちんと優先順位づけ、取捨選択ができていることで、自分にとって不要な願望に心動かされることなく、必要な願望にフォーカスできるのが、願望から自由な人です。

また、人は知らないものを望むことはできないので、願望はその人の知識に基づきます。

ですので、正しい行いをするためには正しい願望を持つことが大切で、正しい願望を持つためには正しい知識を持つ必要があります。

自分自身や世界を見誤っていれば、願望もとんちんかんなものとなり、自分自身や周囲を苦しめることにもなりかねません。

自分自身を、「足りていない人」「安心ではない人」「何かを得なければ幸せになれない人」と見ていれば(自分自身に関する知識がそのようであれば)、願望は不満足な自分を満たすためのものとなり、不安や恐れ、プレッシャーを伴います。

それらは、「束縛する願望」と呼ばれ、時にはダルマ(全体宇宙との調和)に反してでも、個人的な好き嫌いに基づいた願望を叶えることが大切に思えてしまいます。

願望(欲望)が、自分自身や周囲にとって問題となるのはこのような時です。

安心・安全、喜びを外側に求め続ける生き方の中にも、ダルマの喜び(調和の喜び)を感じられる瞬間はあります。

いつも辛く当たってしまう相手に優しくできた時、気乗りしないけどやるべきことができた時、かけ引きなく善意からの貢献ができた時

何かを得た時のような、興奮を伴った喜びとは異なり、それを選べたことにホッとするような感覚と共に、穏やかな喜びを感じる瞬間があります。

そう振る舞えた自分に自分が喜んでいる、自分のことが少し立派に思えること。

それがダルマの喜びであり、良心として現れているうちなるイーシュワラとの調和の喜び、イーシュワラらしく振る舞えたことによる満足です。

その自分自身を立派に思える感覚を、聖典は「自己尊厳(自己肯定感)」と言います。

ダルマな選択に基づいた健全な自己尊厳があってはじめて人は、自分自身を受け入れること(自己需要)ができます。

やがて、その自己尊厳が持てることこそが「成功」の意味であり、行いの結果が期待通りかどうかは重要ではないことがわかってきます。

すべきでない方法で、望んだ結果が得られたとしても、後ろめたさが残り、自分が自分を受け入れることができなくなります。

ダルマとの調和、イーシュワラとの調和が喜びとなったヨーギーにとって、それは全く割に合わない取引です。

物が安心や幸せを与えたりしないことが理解されるほど、自己尊厳と引き換えに目先のわずかな利益を得ようとは思わなくなります。

その人の知識には、「傷つけない」「盗まない」「騙さない」などのダルマの価値が明確で、感覚器官がもたらす無数の願望も、ダルマ(イーシュワラ)を軸に、整然と優先順位が見極められていきます。

ダルマ・アダルマ・ヴィヴェーカ(すべきこととすべきでないことの見極め)

ニッテャ・アニッテャ・ヴァストゥ・ヴィヴェーカ(移ろう物事が永遠に自分を満たすことはないという見極め)

それらの識別(ヴィヴェーカ)を持つ人にとって願望はもはや束縛するものではなく、世界との調和・貢献に向けて自分自身を励ましてくれる、イーシュワラからの恩恵です。

「願望を持てることは恩恵で人の喜びです。願望が問題となるのは、自己尊厳の無い私がそれを使うときです。」

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