sami@yogamarga
ヨーガの聖典『バガヴァッド・ギーター』に関するあれこれ。 ヴェーダーンタの伝統の先生の下で、生徒として学びの身ではありますが、今の理解を書き留めております。 ヴェーダの文化で最も重要とされる聖典を身近に感じてもらえたら嬉しいです。
パタンジャリ著『ヨーガ・スートラ』で紹介される八支則のヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)について、先生から教わったことをまとめています。 自分の理解が至らない点も多々あるかと思いますので、一生徒の理解としてご参考までによろしくお願いします。
長いタイトルですね^^; 10月より、Medha Michika先生の『祈りの理論&サンスクリット語の祈りのことば』に収録されている、日々のお祈りのシュローカ(詩句)の練習&勉強会を開催したいと思います。 初めてヴェーダの教えに触れる方、ヨーガ哲学の学びを深めたい方、サンスクリット語のチャンティング(詠唱)をこれから学んでみたい方などにおすすめの勉強会です。 アーサナヨガや座学クラスの経験の有無に関係なく、どなたでもご参加頂けます。 勉強会では、同テキストに収録されてい
「消費者から貢献者へのシフトが人間の成長だよ」 そのように、スワミ ダヤーナンダジはよく仰っていたと聞きます。 少しずつ貢献者として振る舞える場面が増えてくると、消費者だった自分がどれだけ与えられ、支えられていたのかがわかってきます。 「自分が満たされていないと与えることはできない」 という文言もSNSなどでよく目にしますが、むしろ「与える」から「自分も与えられている(満たされている)ことがわかる」のだと思います。 実際に足りていない(欠乏)なら、満たすことができま
本来「違い」に過ぎないものを自分の見方において区別して、「分断」を作り出しておいて、喜んだり、怒ったり、悲しんだりしてしまうのが私たち。 そういうことから自由になりたくて、ヨーガなどの精神的な教えを学ぶのですが、そこでもまた「流派」がどうだ、「あれは本物、これは偽物」などとやってしまうのは、もはやジョークのようでもあり、私たちのエゴの根深さでもあります。 ラジャス(動的、外向的な質)な心がある程度落ち着くまでは、知識がかえってエゴや、マウントを取るための道具になってしまう
オーガニック食品を食べていても病気になる人がいるし、ファストフードを食べていても健康で長生きする人はいる。 だからオーガニックと健康は関係ない。 (あるいはヨガをしていても〜。) という論理を見聞きすることがありますが、ヴェーダの教えではこのように考えます。 全ての生き物には過去生の無数のカルマ(行い)があり、まだ実りを得ていないカルマの一部が原因となって、今世の体や体験が与えられています。 まだ実りを得ていないカルマをサンチタ・カルマと言い、その中で今世の原因となったカ
私たちが何かを得たいという欲求(願望)を持つ時、2種類の欲求があると言われます。 ひとつは、「持っていない、足りていない物」を望んでいる場合で、実際の「欠乏」からの欲求です。 例えば、空腹や喉の渇きなどは実際の欠乏であり、満たされる必要のある欲求です。 あるいは大工さんにとって、金槌やノコギリは必要な道具ですので、もし持っていなければ手に入れる必要があります。 もうひとつは、「持っていない、足りていないと思っている物」を望んでいる場合で、「欠乏感」からの欲求です。 大工さ
ドゥルヨーダナは、ヨーガの聖典『バガヴァッド・ギーター』の母体『マハーバーラタ』において、主人公であるアルジュナたち5兄弟の従兄弟であり、ライバルとして描かれる人物です。 ドゥルヨーダナは100人兄弟+妹1人の長男であり、「100人」という異常に大きな数は、「考えの混乱」を示していると言われます。 (「108の煩悩」のような感じでしょうか。) 子どもの頃からアルジュナたち5兄弟と敵対し、常に陥れようと画策しては失敗する様子は、バイキンマンを彷彿とさせるようなやられっぷりで
ヴェーダ、ヴェーダーンタを学ぶ以前、仏教が好きで、本を読んだり仏教国をよく訪れたりしていた時期があります。 残念ながら現代仏教には、教えの方法論が残っておらず、お釈迦さまの教えが様々に解釈されており、一番知りたい核心の部分がモヤがかかっていて見えないような感覚がありましたが、日本に生まれて出会えた教えの中で、当時最も本質に近いと感じていたものが仏教だったのだと思います。 その後ヨガ哲学を経て、聖典ヴェーダと、その結論であるヴェーダーンタの言葉を道具として扱える先生と出会え
アーサナヨーガ(体のヨーガ)のクラスの最後に、みんなで仰向けで横になっている光景を見たことはないでしょうか。 あれは、「あー、疲れた疲れた!」とごろ寝しているのではなく、シャバーサナ(屍のポーズ)というヨガのポーズのひとつです。 実際、運動量の多いクラスのシャバーサナでは寝てしまうことも多いと思ますし、あるいは、横になっていても思考がぐるぐる動き続けてしまうこともあると思いますが、それはそれでOK. 時々、起きているのでも、眠っているのでもないまどろみの中で、深くリラック
アヒムサー 傷つけない、非暴力 ヨーガ・スートラ、八支則ヨーガの教えはヤマ、ニヤマから始まり、ヤマ、ニヤマの教えはアヒムサーから始まります。 ヤマ、ニヤマは「ダルマ」の価値の教えであり、その中で最初に挙げられるアヒムサーは、代表的なダルマ、ダルマの中のダルマと言われます。 盗まないこと(アステーヤ)、嘘をつかないこと(サッテャ)、貪らないこと(アパリッグラハ)といった教えは、アヒムサーを徹底することで自然と守られ、禁欲の誓い(ブラフマチャリヤ)、聖典を学ぶこと(スヴァッデ
神とは何か 「輪廻」と同様、ヨーガの教えでは「神」は存在することが前提として語られています。 その神は、「バガヴァーン バガを持つ者」や「イーシュワラ 司る者」といった名前で呼ばれます。 バガヴァッドギーターでは「バクティ 神への帰依」の大切さが繰り返し教えられますし、ヨーガスートラでは「イーシュワラ・プラニダーナ イーシュワラを考えに留めること」の教えが含まれます。 「神、イーシュワラとは何か」を理解することは、ヨーガのゴールとさえ言えます。 ヨーガスートラも、イーシ
ダーラナ 瞑想の対象を考えに保つ デャーナ 瞑想の対象に考えを集中する サマーディ 考えの私の解決 瞑想の定義 一般的に「瞑想」というと、リラックス、集中、マインドフルネス、坐禅、ヴィパッサナーなど、様々な目的を持つ様々な流派の瞑想があるように思われています。 ヴェーダ(ヴェーダーンタ)の教えにおいては、「瞑想」には伝統的な定義があります。 つまり、瞑想とは思考を止めたり、自他の区別がなくなるワンネスを体験することではなく、「イーシュワラを想う考えの活動」が瞑想だ
季節が進み、日中は30度を軽く超える暑さになってきたので、毎朝早朝に行っているプージャーやシュラヴァナム(クラスで先生の話を聴くこと)をお休みし、日の出前に田畑に出るようにしました。 元々ルーティーンに対するこだわり、執着の強い性格で、以前はこうした変更には抵抗がありましたので、今回迷いなくそうできたことに自分でも驚きました。 そんな自分自身の変化に関して、思うところを記してみます。 カルマ・ヨーガの実践 自分は、おそらくこのnoteをご覧の多くの方と同じように、「グ
プラッテャーハーラ 感覚器官の統制 感覚器官の統制に関して、バガヴァッド・ギーターではこのように言われます。 ヨーガ・スートラにおいても、プラッテャーハーラがただ感覚器官を閉じること(見ない、聴かないなど)の練習として言われていないことは明らかです。 ヨーガの教えの中で、ジーヴァ、個人はしばしば馬車に喩えられます。 馬車は肉体、4-5頭の馬は5つの感覚器官(※)、手綱はマナス(思考、揺れ動く考え)、御者はブッディ(知性、揺れ動かない考え)、主人はアートマー(個人の本質
プラーナーヤーマ 呼吸の統制 瞑想は、「さぁ、瞑想でもするか。どっこいしょ!」と急にできるものではなく、それなりの瞑想のムードを高めていくことが大切になります。 伝統的な瞑想のステップでは、瞑想の準備としてプラーナーヤーマ、呼吸法を行います。 具体的には、座る姿勢(アーサナ)を整えた後、ナーディーシュッディ(ナーディーショーダナ)と呼ばれる、片鼻呼吸を行います。 鍛錬としてではなく、瞑想前に考えを落ち着かせることが目的ですので、ハタヨーガのナーディーショーダナのようにク
アーサナ 座る姿勢 アーサナからの3つの支則(アーサナ、プラーナーヤーマ、プラッテャーハーラ)は、そのあとの瞑想に必要な考えを整える鍛錬と言われます。 アーサナは直訳すると、「座ること」あるいは「座るための物」で、敷物や座布団のこともアーサナと呼びます。 現代の私たちにとっては、アーサナというとヨガのポーズの練習というイメージが強いですが、ヨーガスートラでアーサナについて言われることはシンプルです。 あくまで目的は瞑想のためで、体の不調、不快感が瞑想の妨げとならないよ
バガヴァッド・ギーターは、主人公アルジュナと、親友でありイーシュワラの化身であるクリシュナの対話の形式で進んでいきます。 この記事のトップ画像では、右で立っているのがクリシュナ、左側で跪いているのがアルジュナです。 アルジュナとはどんな人なのかを理解することは、ギーターに親しみを持つとともに、ギーターが「どのような人に向けた教えなのか」を理解することにも役立ちます。 クリシュナの教えはギーター2章11番の詩から始まりますが、直前のこれらの詩はアルジュナの偉大さを表す詩だ