『翔太と猫のインサイトの夏休み』の問題
本稿の目的は永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』(ちくま学芸文庫)をご紹介することです。
本書は中学生の翔太と、翔太の家で飼われている猫(名前はインサイト)が対話をしながら哲学の問題を考えるという形式の哲学書です。話し言葉で書かれています。
インサイトは哲学に詳しそうに見えますが、翔太と同様、間違ったことを言っている可能性があるので疑いながら読みましょう。
まず最初に取り上げられるのは、「いまが夢じゃないって証拠はあるか」という問いです。あなたはたぶん今、パソコンやスマホなどの画面でこの文章を読んでいると思います。少なくともあなたはそう思っているはずです。では誰かが「今この文章を読んでいると思っているだろうけど、それは実はあなたの夢なんだよ」と言ったらどうでしょう。「そんなことはない、これは現実だ」と思うでしょうか。でも、なぜ現実だとわかるんでしょう。
空を飛ぶ夢を見て、目が覚めてから「ああ、空を飛んだのは夢だったか」と気づくみたいに、あなたが今経験している全てが夢だという可能性はあるでしょうか。可能性がないのだとしたら「これこれこういう理由で、この世界が夢である可能性はない」と証拠を出すことはできるでしょうか。
よく漫画などであるように、頬をつねってみることはできます。やってみれば痛いと感じるでしょう。でも「頬をつねったら痛いと感じた」という内容の夢を見ているのかもしれません。そのほかどんな経験をしても「でも、そういう内容の夢かもしれないじゃん」と言うことが可能に思えます。だから「この世界でこういう経験をした・しなかった」といくら言っても、この世界が夢ではないことを証明することはできません。
「この世界から目覚める」という経験をしたことがない、とは言えそうに思えます。私たちがふだん見る夢なら「寝る→夢を見る→目を覚ます→寝る」という経験をしますが、この世界そのものから目が覚めて、自分が「この世界でない場所」にいることに気づいた経験はないはずです。でも「まだ目覚めていない」だけなのかもしれません。夢の中では「これは夢で、これから目覚めるんだ」と思わずに過ごしている(そういう夢を見る)ことがあるでしょうが、それと同じように、まだ目覚めていないのでこの世界を現実のように感じるだけかもしれません。
というわけで「この世界も、この世界であなたがしている経験も、本当は全部夢かもしれないんだ」との主張に反論するのは困難に思えます。
では「この世界が夢かもしれない」という場合、それは「この世界は全て夢で、『夢から覚めたあとの世界』がどこかに実在する可能性がある」「あなたが一生見ないとしても、目覚めたあとの世界は実在する可能性がある」という意味なんでしょうか。
それとも「私たちが一生見ない、見る可能性がそもそもない世界というのは、存在しないということだ」という意味でしょうか。
ややこしい話なのでもう少し説明させてください。
今、あなたの部屋の机の上に、現実に(!)リンゴがあるとします。あなたはそれを見ています。あなたが部屋から出ていくと、リンゴはあなたの目からは見えなくなります。でも机の上にはリンゴがあるか、それともないか、どちらかですよね。あるならあるでしょうし、ないなら転がってどこかに行ったとか、誰かが食べてなくなったとかです。どちらにせよ、あなたが見ているかいないかとは無関係に、リンゴがあるかないか決まっています。
同様に、別の銀河の遠い星に海があるかないか人類の存続中に見に行くことはできないかもしれませんが、海があるかないかは客観的に決まっています。あるなら、人類の誰も確かめないままでも、そこには海があります。ないなら海はありません。
それなら、先ほどの「夢から覚めたあとの世界」も、あなたがそれを認識しようとしまいと、存在するかしないかのどちらかでしょうか。
もしかしたら、あなたはいつか「この世界から目覚めた!」と感じる経験をするかもしれません。「わたしは2023年10月20日、この世界から目覚めた。目が覚めたらそこは火星だった。地球にいたと思ったのは全部夢だったんだ」みたいな。でも、でもですよ。それも夢の中の経験かもしれないじゃないですか。「地球人が、『ある日自分が火星人として目覚める』という内容の夢を見た」のかもしれないです。
さあ困りました。私たちは(あるいはあなたは)この世界から目覚めることができないみたいです。どんな経験をしても「この世界の中で奇妙な経験をした」のかもしれなくて、「絶対にさっきの世界から目覚めて外に出た!」と確信できる状況を思い付けません。つまり、何をすれば「この世界から出た」「目覚めた」ことになるかが、そもそもわからないんです。
いいでしょうか。机の上にリンゴがあるかどうか、あるいは別の星に海があるかどうかは、何をすれば確かめられるかがわかります。机の上のリンゴなら部屋に入って見るとか触るとか。それができないのは、たまたま今あなたが部屋の外にいるからです。どうすればリンゴがあるか確かめる方法がわからないのではありません。異星の海も、技術的に行くのが困難なだけで、技術的な問題がクリアできれば行って見たり触れたりできることはわかります。
でも、この世界が夢かどうかは、何をすれば確かめられるかがわからないんです。私たちのどんな経験も、この世界が本当は夢だったことの証拠にならないからです。その場合でも「この世界の外の場所は実在するかしないかのどちらかだ」と言えるんでしょうか。
という書き方をすると「この世界の外の場所は実在するかしないかのどちらかだとはいえない」と誘導しようとしてるな、と思うかもしれませんが、特にそういう意図はありません。それでもやっぱり実在するかしないかのどちらかなのかもしれません。重要なのは、「私たちが認識しようとしまいと、この世界の外の世界が存在するといえる」「そうはいえない」のどちらにせよ、なぜそうだといえるのかです。
たいていの人はこのあたりで考えるのをやめます。そして「いやあ、深いね」とか何とか言って、この話は忘れてしまうでしょう。本書は「深いね」で片付けずに少しでも前へ向けて考えていこうとします。それに付き合う気持ちがあるなら、この本を楽しめると思います。
永井の著作を全て読んだわけではないですが、永井には「わたし」と「他の人」は全然違う、という感覚があるように思われます。「わたし」はいわば、世界をそこから見る場所です。他の人はわたしが見ている登場人物みたいに見えます。わたしがメアリーさんを見るというのは、わたしという観測地点からメアリーさんを見るという意味ですよね。
わたしより頭のいい人、金持ちの人、美しい人はいくらでもいるでしょうが、「世界をそこから見ている地点」と言える存在は「わたし」しかいません。
「わたし」と他人は全然違います。他人や石ころやアンドロメダ銀河やコモドドラゴンや本やナポレオン・ボナパルトなどはよく似ています。これらは全て「わたし」が観測する対象(客体)です。「わたし」だけが観測する主体です。もちろんそれは「わたしの方がえらい」という意味ではありません。
では。
私は篠田くらげという人間です。もちろん私にとっては篠田くらげこそ、「そこから世界を観察する場所」です。ところで、篠田くらげとそっくり同じ人間が生まれたのだけれど、なぜだかそれが「わたし」ではない可能性はあったんでしょうか。
「わたし」ではない篠田くらげはもちろん人間で、心もあります。泣いたり笑ったり、noteを書いたりもします。しかしなぜか「わたし」ではありません。そんな可能性はあったんでしょうか。
篠田くらげが「わたし」でないとしても、周囲の人間は一切それに気づかないでしょう。「わたし」でない篠田くらげは身体的にも性格的にも今の篠田くらげとまったく変わらないからです。しかし、「わたし」にとっては「わたし」が篠田くらげなのか、イーロン・マスクなのか、そもそも存在しないのかは決定的に違います。何らかの魔法で篠田くらげが「わたし」でなくなるとしたら、篠田くらげという人間がこれまでどおり生きていても、「わたし」はその瞬間死んだのと同じであるはずです。もちろん周囲の人は誰も「わたし」がいなくなったことに気づきません。篠田くらげの肉体も精神も存在しているのですから、これまでと同じやつがいるな、と思うだけです。
どうでしょう。特定の人間が「わたし」なのは不思議だ、という感じがしますでしょうか。私は哲学を専門的に学んだわけではありませんが、哲学って「これ不思議!」と思えるかどうかがけっこう大事だと思います。デカルトが「これ不思議!」と言っている話には共感できるけどカントが言っていることは全然不思議だと思えない、ということはありえます。
もし永井が言う「これって不思議!」に「たしかに」と思えるなら、本書を読む価値はありそうに思えます。