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ジャック・デリダ『言葉にのって』(林好雄、森本和夫、本間邦雄・訳) ちくま学芸文庫 2001年
原著は1999年刊。1998年12月、カトリーヌ・パオレッティによりインタビューが行われその内容を省くことなく収録、さらには1997〜1999年に4回にわたりラジオで行われた同様の対談も編集の上、加えてある。
難解なエクリチュールのイメージが強いデリダ。その彼の裸のパロール(話し言葉)、思わぬ発露や本心、潜在意識の表れも期待できそうだが…
デリダといえば
デリダの思想の一つに脱構築(Déconstruction)という概念がある。
対立する2つで考えるのではなく、そのもろもろを解体し再構築する、あるいは新しい何かを提示する。一般概念をひっくり返す動き。
60年代に隆盛を誇っていた構造主義に対して、デリダが批判的な問題提起を掲げようとしていたことについての言及。フランスの思想・文学誌『テル・ケル』に主張が受け入れられ掲載され、反響を呼んだ。
構造主義の転覆ではなく、「賛意と警戒の身振り」だったと表現している。脱構築を掲げるために、すでに脱構築的手法を始めていたのだ。
AだがBでもある、Aでありnot Aでもある
本書の前半から感じるのは、問題に関して対立する二項をどちらも否定しない、あるいは否定しつつ肯定する、そんな言い方がとても多いということ。列挙しながら中身を見ていこう。
自分が立ち上げた思想や企画や創作でなくても、それが建築でも音楽でも、もし参加できる機会があるなら「私なりのやり方で、急いで駆けつけますよ」。それが自分には主導権がないもの(予期せぬもの)でも、すでに自分の中で漠然と考えていたもの(予期されたもの)にちがいないだろうから、という主旨で言っている。柔軟で、楽しもうとする姿勢も感じられる。
レヴィナスの「歓待」について。他者が家に入ってくるかもしれない、それを待つ姿勢をとることで初めて自分の家と呼べるものが立ち上がる、と言っている。レヴィナスは、絶対的な他者を前提にした無力な自己という概念を打ち立て、プラトンからハイデガーに至る哲学の伝統を揺さぶったとする。
彼にとってレヴィナスの思想は「私の、他者の尊重」ではなく「私は、他者の餌食」という強烈なものだ。
デリダは、自らが抱える問題やテーマについて矛盾するものを集めながら、その上で思考を重ね、決定し、責任を果たしていきたいと主張している。
「矛盾の緊張」とは強く響く言葉である。しかしそれは自由でもあるとしている。
デリダは流派や組織、グループを作ったり属すのが嫌だったようだ。もし思想的な何かの構成員や継承者となるには、先達と十分に決別した上で、それに署名しまた同様に同じ別のものにも署名する、その自由さを前提とする。
嘘と真実
嘘と真実という身近な二項対立の問題についても、カントの主張を引き合いに、脱構築的な分析をしている。
後者はカントが主張する、誠実さの義務について。ウロボロスの蛇のような仕組みに驚き、逡巡している。つまり誰に対しても誠実に語ろうとする、その暗黙の了解は同時に、嘘をつくことも可能にしてしまう。そいう両義性が成立する。「語ることに違反している」、違反せざるを得ない定めを負っているというわけだ。
赦し
罪に対する赦しについても言及されている。最後に少しふれておこう。
それは記憶に絡んでいて、赦しがあるところには記憶が必要だとする。忘却や喪、和解などは、赦しと分けて考えるべきとも。赦しとは、忘却や加害者による反省や何よりも先立つ、被害者からの絶対的な贈与としてあるはず、と主張している。
結論にかえて …見えてきたもの
デリダの姿勢がよくわかる一冊。と同時に、結局どうなの?、どんなふうにも言えてしまうんじゃないの?という読後感も生じる。
デリダの手法は、問題を軸として、その周りを回っていく努力なのだろうと思う。一周まわったときには少し視野が広がって、よく見れば景色が少しちがって見えている。その繰り返し、気づきなおしを何度も行っていく。困難なものに我慢強く付き合っていくこと。
私たちは日々複雑な諸問題にさらされている。それでもあきらめずに考え、たまには休み、また進むのだ。
デリダの姿勢は、そのための一つの処方であると思う。