世界人権デーに合わせて…
12/10が世界人権デーだったそうなので、それに合わせて日々考えていることを書きたいと思います。
人権という言葉は小学校中学年の頃くらいからよく耳にしていました。母にくっついて選挙の勉強会などに参加していたからです。
中学校生活を通して、つまりは「人間として扱われること」だと解釈しました。そして、それが当たり前のことなのに、脅かされてしまうものだと知りました。
同性婚や選択的夫婦別姓など、なかなか法制化が進まない理由として「手続きがややこしくなる」的なことを言われているのを聞きますが、これらに関しては手続き云々の前に、特定の人々の権利が守られていないというのがおかしいと思います。
私は小さい頃「アメリカでは男の人同士、女の人同士で“けっこん”できる」ということを「結婚」の概念を理解する前に知ったので、それが世界中の当たり前でないことを後で知ってとても驚いた思い出があります。
理解する順番が違ったからか、なぜ「同性婚反対」という考えが存在するのか、(逆に)本質的にはどうしても理解できないところがあります。
手続き云々は私が最も苦手とする分野なので、私だってややこしくなるのは嫌ですが、同性婚や選択的夫婦別姓を可能にするという前提のうえでそれをどう制度化するか、わかりやすくするか考えるのが政府の仕事ではないでしょうか。
それでうまくいかないことがあるのなら、制度や社会の固定観念の方に問題があることを疑うべきではないかと思います。
私は大学のモチベーショナルレター(志望動機?)で以下のように書いていました。
数ヶ月前に書いた文章ですが、今でもずっとこのように思っています。「世界平和」というのが理想論的であることは痛いほどわかっていて、具体的に外交面でどうしたら良いのか、そのために歴史的な問題をどう解決するのか(現代に解決することは可能なのか、そもそもその必要はあるのか)、考え出すと全然まとまらないのですが(そして極論に行き着いてしまいがちなのですが)、せめて、自分の目の前にいる人、知っている人の人権が無視される状況は絶対に作りたくないと強く思っています。
自分が最も幸せ者だと思っていることは、家庭や学校で自分の「NO」がきちんと力を持つということを信じられる環境で育ったことです。1人だけ「今日はラーメンの気分じゃない」と言うなど、ただのわがままと化していることも多々あったと思いますが、私が「嫌だ」と言ったら周りの人がきちんと耳を傾けてくれる、意志がきちんと反映される環境にいられたことが、自分の人間としての尊厳を持てた原点だと思っています。
その分、自分の「NO」が力を持たない状況に遺伝子レベルで恐れているところがあります。(フィクションであっても「許嫁」や「親に決められたこと」を登場人物が無理やりやらされそうになるストーリーは見ていてキツいです。でも『はいからさんが通る』は好き…)現実の話なら、尚更感情移入してしまいます。
21世紀とは思えないような事件や戦争が各地で起こっていて、傷ついている人々のことを思うとやりきれない気持ちになります。逃げられない、「NO」と言っても聞き入れられないというのがどんなに恐ろしいことかと思わずにはいられません。
最近の韓国ですが、ニュース番組で、5歳くらいの子どもがお母さんに向かって「僕たちの国は大丈夫なの?僕たちは安全なの?」と問う場面があったそうです。韓国出身の友だちはそれが頭から離れないと、涙ぐんでいました。
私は、この問いに常に「大丈夫だよ」と答えられる社会、世界でありたいと心から思っています。そして、それを教育の分野から可能にしたいです。
「人権」というテーマを挙げておきながら、とっ散らかった内容になってしまいましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。広いテーマなので、たくさん取りこぼしている事例やトピックがあると思います。そもそも結婚制度って…、姓の選択の問題をたどると…など「そもそも問題」もあります。これからも考え続けます。
全ての人の人権が侵害されることない世界になりますように。(と願わなくても良い世界になりますように。)