朝という時間
山を歩いていると、
ふっと、その場の空気が変わる瞬間がある。
それは、山頂の気持ち良さに、コーヒータイムを長く取りすぎて、下山が少し遅くなった時に、しばしば感じる。
「人が山の中にいてはいけない時間」
ブルっと震える感覚。
肌を撫でる風も、心なしか冷たく感じる。
早く降りなくちゃ、足を早める。
夜の時間、獣の時間。
まだ太陽の光は届いている。かろうじて、明るい。
ある日、
私に小田原の畑の持ち主、師匠を紹介してくれた方が、こんな話をしてくれた。
それは、
「『朝』という時間があるんだよ。」
という、フレーズから始まった。
夜という時間、獣の時間を登山で感じて知っているので、
その、「朝という時間」というか、その瞬間があるのは、理解が出来たし、興味深く聞いていた。
その瞬間は、まだ暗い、一般的に日の出の時間、と言われている時間より早く訪れるという。
薄暗い山の中、
武道の夏合宿で山を登っていた時に訪れたという「朝の瞬間」
気が変わり、鳥がその瞬間を捉えて鳴く。一羽の鳥が、朝を捉えて鳴きだすと、他の鳥も鳴きだすという。
神秘的はその瞬間を、気が変わる瞬間を、私も感じてみたい。そう思っていたが機会はなく、
その話も記憶の奥の方に、行ってしまっていた。
それは、
もう山に冬がやってきた10月の終わりだった。
上高地、北アルプスに魅せられ始めた4年前、
今年最後の北アルプスへ行こうと、新宿バスタから夜行バスに乗った。
弾丸、
夜行バス日帰り登山。
目指すは西穂高岳独標。
夜行バスは早朝、5時12分.予定より少し早く「上高地帝国ホテル前」に着いた。
ここでバスを降りる人は私一人
バスが上高地帝国ホテルを去ると、
辺りは一瞬にして、漆喰の闇の中になった。見上げる空は隙間がないほど、星が輝いている。
足元に目線を落とすと真っ暗で、慌ててヘッドライトをつけた。
西穂高岳の登山口は、帝国ホテルの裏、梓川を渡ったところにある。
暗い門の奥からが登山道だ。
「西穂高岳登山口」と書かれた門から奥を覗くと、漆喰の森が奥へと広がっている。
1人の夜が怖くって、1人で寝る事が出来ない私が、何故か怖いとは思わなかった。
ベッドライトに照らされた一本の光の道は、木の根と落ち葉で、どこが登山道なのかわからない。
時々ベッドライトを消して、月明かりで森全体を目を凝らして見ると、広々とした落葉した森が広がっていた。
色のない森の中を、
インディージョーンズのテーマソングと共に歩いていると、その時
「あ! 朝だ!」
思わず声が出た。朝だと感じた。
まだ日の出前、空が白み始めたとはいえ、まだ暗い。
でも、不思議だ、朝だ!そう思った。
と、鳥の声が響き初める。
一羽が鳴き始めると、次々とあちこちから、それに続く。
お腹がオレンジ色の鳥、コマドリだろうか、朝が来た事を全身で表現する様に、私の前後を飛ぶ。
つがいだろうか?2羽のコマドリがさえづりあう、私がいる事など、全く眼中にない様だ、目の前を行ったり来たりしている。
かわいい。皆、朝を喜んでいる。
今日を楽しんでいる。
ベッドライトはもういらない。
空が見えてきた、周りの山々の輪郭も見えてきた。
6時を過ぎて、
樹林帯を抜け、雪を被った穂高がちらりと見えた。
そろそろ日の出の時間だろうか?
鳥達が遊ぶ近くで、私も少し休憩をし、朝ごはんのパンをかじった。そして、神秘的な時間を、鳥達と一緒に楽しみ味わった。
しばらくすると、
霞沢岳の向こうから太陽が顔を出した。朝焼けで山肌が赤く染まる。
「今日もいい天気だ。」
リュックを背負い、
急な登りをさらに登る。
8時半、西穂山荘に到着した。
名物のラーメンをいただき、お腹を満たして、西穂高岳の独標を目指す。
大きな岩の急登りを登り終えて、振り返ると、
目の前に、焼岳とその奥に雪を被った乗鞍岳が見える。
そして左手には、まるでピンクのドレスの裾を大きく広げた様な、きれいな山が見える。
「きれいな山、なんて言う山なんだろう!」
地図で方角から調べると、笠ヶ岳という山だとわかった。
太陽の光を受けて、山肌がピンクに輝く。大きなどっしりした山容で、優雅な山だ。
ここからは、アルプスを見渡す稜線歩きが続く。降った雪が凍ってる。その上を歩くとパリパリと音がする、楽しい。
程なくして、西穂高丸山だ。
コロンとした、丸い山頂からも、笠ヶ岳はきれいだ。雪で染まった穂高も見える。ため息が出る、きれい!
ここから先、独標までは、アップダウンのある岩場が続く。
この先へ行くのは、次回の山行きにし、今日はここでコーヒータイムにする事にした。
360度の展望、
優雅な笠ヶ岳、眼科には梓川の流れ
コーヒーの香り、
誰ともすれ違う事のない、静かな山の稜線。
どれもが素晴らしい。いつまでも居られる。
しかし、帰りのバスの時間もある。
そろりそろりと立ち上がる。
名残惜しいが下山しよう。
夜の時間が来る前に、
獣の時間が来る前に。