自分の好きな服を、毅然として オペラ『オーランドー』を観て
COMME des GARCONSの洋服は、中学生の私にとって衝撃だった。
モノトーンを基調にまとめられた色合い、ひらひらとした部分があっても甘やかさとは距離をおいたシルエット。そんな衣装を身にまとったモデルたちは無理解を拒むような、挑発するような目つきをしていた。
彼らは自分の足で立ち、着るものを選ぶ自由と責任を表現しているように思えた。
憧れをそのままひきずって、制服のままショップに飛び込んだこともある。当然どの服にも手が届くはずがなく、白黒紺の色調は似通っていようがセーラー服は明らかに浮いていた。
無知ゆえの暴挙だけれど、こういう服が似合う大人になるのだ、と私は密かに熱をあげたのだった。
その熱を、オペラ『オーランドー』を観て久々に思い出した。
というのも、日本人女性としてもかなり小柄な部類に入る私は結局COMME des GARCONSが似合わず、というか着られそうなサイズのものを見つけられず、ふてくされたまま忘れていたから。
『オーランドー』の舞台は、私が持つオペラの印象にふさわしいものであふれていた。ナレーターの暗く沈んだ赤の、レースで膨らんだどっしりとしたドレス。極端に膨らんだ袖や、動くたびに鈍く金糸が光る裾。舞台の暗がりや、強い照明にも負けない存在感を放つ数々は、眺めているだけでも楽しかった。
けれど、衣装だけが記憶に残る舞台では、決してなかった。
COMME des GARCONSに出会ったのより少し後、私はヴァージニア・ウルフの小説を手に取って、以降ずっと恋い焦がれている。邦訳されたものを何度も辿り、憧憬をもとに原文と格闘もしてきた。
ただ、『オーランドー』は初めて読んだとき、よくわからなかった、という気持ちをかみしめて終わったのだ。ウルフの繊細かつ華麗な描写は、変わらず美しい。けれど男性として生を受けたのち女性に転身し、300年を超えて時を駆けるオーランドーの話は、当時の私には難解すぎた。掴んだと思う間もなくするりと姿を変えていくものを追いかけているようで、その遊び心のめまぐるしさを受け止めきれなかったのだった。
正直、今でもこの小説の受け止め方について、自分なりの正解を見いだせていない。
だからこそ、『オーランドー』がオペラになると聞いて、私は胸をときめかせた。あの跳ねっ返りのお話を、どのように調理して舞台上にまとめてみせるのかと。
私が見たのは、小説の中で掴んだ(と思った)どのオーランドーの姿とも違って、でもまぎれもないオーランドーの可能性を描いていた。
一幕の途中までは、舞台は概ね小説の筋書きを辿る。
けれどオーランドーが女性に転身し、英国へ帰国したのち、物語は見知らぬ方向へ拡散していった。エリザベス朝時代に生を受けたオーランドーは、小説が終わる1928年で話を終えることなく、ウルフが自死を選んだ年をも超え、アメリカへ海を渡り、ベトナムに移動し、私が生きている2019年に近づいてきた。
オーランドーは支配者に声をあげられずにいる弱者、女性や子供たちのために書くと誓い、女性にふさわしいとされる待遇やふるまいを嘆き、また戦場を駆け巡る。
無力ゆえに、自分を虐げる相手に向かって感謝という恭順を示すほかない若い女性や子供たちの合唱の、悪夢的な美しさが忘れられない。
そのコーラスを引き裂くように、あなたたちのことを書く、と叫んだオーランドーのひたむきさも。話が進むに従って、私の中ではオーランドーの姿にウルフがだぶって見えた。
小説はウルフの恋人であったヴィタ・サックヴィル=ウェストへの比類ない恋文であると同時に、サックヴィル家の歴史のコラージュでもある。しかし、それだけにとどまらず、今回はウルフの似姿としてのオーランドーが、よりたちのぼってきたように感じた。
『自分だけの部屋』や『三ギニー』といったエッセイからわかるように、ウルフは女性が物語を書くこと、そして反戦に強い関心を持っていた。
対して、その姿勢が明確に見て取れる小説はほぼ存在しない。
ごく初期の短篇に、当時女性を締め付けていた男性に向けての批判的姿勢がはっきりと書かれているものがある。
その短篇、『ある協会』はしかし、強い批判を浴びたという。
以降、ウルフが小説にわかりやすい形でこのたぐいの考えを表したことはない。
だけれども、Me too運動が世界を揺るがした昨今であれば。自分たちの扱われ方に否をつきつける女性たちがおり、賛意を示す人々がいる今の時代であれば、もしかしてウルフは、このようなオーランドーの姿を書いたのだろうか。
考えてみれば、これほど正しい解釈もなかった。
小説が結末を迎える1928年10月11日は、小説『オーランドー』の出版日なのだから。
オーランドーという人物の、エリザベス朝時代から今まで続く生を描く物語なのだから、2019年に再構成したのであれば、2019年まで見せなければいけないのだ。
COMME des GARCONSのブランド名は、「少年のように」という意だという。
私は、その目指すところは「少年」という、男性でもない、また女性でもない、性に縛られない個人としての在り方なのだと理解し、憧れていたのだった。
ウルフがもし現代に生きていたら、彼女はCOMME des GARCONSを気に入ったろうか。
その服に袖を通したら、あの繊細でありながら強度のある文体で、どんなことを書いただろうか。
ふと、そんなことを思った。