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LGBTQ+の「自殺リスク」が高い理由
先日、精力的に性的マイノリティへのサポート活動を行う「アライ」の方と、性的マイノリティの健康について話すことがありました。
アライ(Ally)とは、セクシュアルマイノリティの人々を理解し、権利向上や啓発などで支援しようと行動する人々を指すものです。
その方も非常に楽しげに、しかし熱心に活動を行う様は頭が下がるものがあります。
しかし、お話しする中、ちょっとした言葉選びが気になってしまったんですね。私がその方の何に気になったのか、考えてみることにしました。
LGBTQ+はメンタルを病むもの?
性的マイノリティは健康やスポーツ分野へ参加する機会が著しく少ないことは、調べている人の間ではよく知られています。そんな中、草の根的に運動機会を増やそうとする動きは少しずつ広がっているという話をしていたのです。
その時に
「セクマイ(セクシュアルマイノリティ)の人はすぐメンタルとか病んじゃうから、運動とかした方がいいよね!」
と笑顔で言われました。
私にはなんだかとても短絡的な論拠に思えてしまいました。咄嗟に「スポーツの機会は女性の問題でもありますよ!」と言葉を付け加えてしまいました。
その方の言わんとする意図は共感できます。しかし、「運動機会の問題」と「メンタルヘルスの問題」を一直線に結びつけてほしくなかったのです。
自殺リスクが高いLGBTQ+
まず前提として、性的マイノリティ性を持つ人は、それ以外の人と比べ優位に自殺リスクが高いと言われています。下記の記事では6倍高いとされていますが、国内外の様々なリサーチでデータが示されています。
自死に至るにはメンタルの不調がありと言われております。そして、メンタルヘルスの不調改善には運動が有効なのは有名な話ですよね。
そういった点から、メンタルを病みやすく自殺リスクの高い性的マイノリティは運動した方がいいのは間違い無い話です。
「セクマイは病む」には「女は仕事をすぐ辞める」に似た乱暴さがある
ですが、その方の「セクマイの人はすぐ病む」という言い回しは、まるで「セクマイ=メンタルを病む人々」と取れるあまりにも雑な響きに聞こえてしまったのです。
もちろん他意がないのは分かっています。しかし、なんというのか、ストレートに一括りにされてしまうのは、まるで「女は結婚するとすぐ仕事を辞める」と同じ乱暴さが感じられたのです。(一応補足しますが、女性が結婚、妊娠出産で退職しやすいのはあると思います。しかし「女性だから退職」するのではなく、仕事をしながら子育てができる環境が整っていないなど、「外的要因からやめざる得ない」わけです。その2つは似て非なるものです)
そもそも性的マイノリティは、メンタルを病んでる人や希死念慮が強い人ばかりではありません。
「「死にたい」って思ったことないんだよね〜」という人だっています。
それに、死にたいと思う理由は、多くの人と同じものです。
仕事や学校が辛かったり、人間関係や家庭環境など、困り事があるからです。性的マイノリティ性のみで自死を望み、行動までに至るということは、寡聞にして聞き及んでいません。
「死」という選択肢との距離が近い
では、なぜ自殺リスクの高さにつながるかというと、おそらく「死」という選択肢の距離の差ではないかと思います。
性的マイノリティの人は、様々なシーンで、自分が「自然の摂理反してる」「普通じゃない」「間違ってる」のではないかと他者や自分自身に問われ続けています。
みんなと同じ、「普通」になるためには、この体を捨てて、人生をやり直すしかないわけです。
これはあくまで私の経験に根ざした想像ですが、ふとした瞬間に
「生まれ直したい」とか
「生まれなければよかったのにな」
と思うことは多分、他の人より考える機会が多いのではないと思います。
(他の属性をもった人でもそういう想像はすると思います。あくまで機会の多寡の話です)
「死」という選択肢が少し目線をずらすだけで視界に入ってしまう、何かしらの困難に直面した時、性的マイノリティ性が死へ背中を押すーー
それが自殺リスクの高さにつながっているのではないでしょうか。
個人を責めるのではなく、違和感の理由を探る
そう考えると自殺リスクが高い属性であることと、精神を病みやすいことを安易に繋げて考えることはやや乱暴なのはいうまでもないでしょう。
繰り返しになりますが、その方にそんな意図は微塵もないことは重々承知しています。アライであること、その方のアクションの尊さが決して揺らぐこともありません。ただ相手が誰であろうと、見過ごしていいことでもないとも思うのです。
これが、当事者が自嘲気味に語ったところで、良しとしてはいけないことなのだと思うのです。
この考え方の根底には、どんな人でも偏見があり、その偏見自体を責めるべきではないという信念があります。もしよければこちらも読んでもらえると嬉しいです。
こういった小さな違和感にしっかりと目を向けていくことは大切だと思っていますので、気がついて言葉にしていこうと思っています。
また、アライの存在は非常に重要です。当事者ではないからこその力もあります。その重要性を感じるにはこちらがおすすめです。興味のある人はぜひ目を通してみてください。