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アーレント『人間の条件』を読む#3/永遠と不死。そして観照よ、ここでお別れだ。

一度挫折したハンナ・アーレントの『人間の条件』を読み直し、思ったことを書いておくだけの記事。(※素人の感想なので、見当違いな解釈が多分に含まれます。)

前回、プロローグに戻った。そしてアーレントの意気込みと「なぜ活動的生を分析するのか」が分かったような気がする。

そしてまた1章に戻る。まだ1章。遅い。けど始めが肝心だから遅いのであって、後でどんどん加速するのだ、きっと。だといいな。

●永遠と不死について
アーレントは近代以降の危機を分析するために、通時的な「活動的生」の分析を行う。だけれど「思考活動(activity of thinking)」については考えないことにした。ここはモヤモヤポイントだ。だからせめて「排除したもの」が何なのか、を明確にする必要がある。「3.永遠と不死」は、そのための節なのだろうと思う。

3 ETERNITY VERSUS IMMORTALITY
That the various modes of active engagement in the things of this world, on one side, and pure thought culminating in contemplation, on the other, might correspond to two altogether different central human concerns has in one way or another been manifest ever since “the men of thought and the men of action began to take different paths,” that is, since the rise of political thought in the Socratic school.
一方ではこの世界の物に積極的に関与するさまざまな方法が、他方では観照に至る純粋な思考が、人間のまったく異なる二つの中心的関心事に対応していそうだということは、「思想家と行動家が異なる道を歩み始めて以来」、つまりソクラテス学派で政治思想が台頭して以来、何らかの形で明らかにされてきた。

However, when the philosophers discovered—and it is probable, though unprovable, that this discovery was made by Socrates himself—that the political realm did not as a matter of course provide for all of man’s higher activities, they assumed at once, not that they had found something different in addition to what was already known, but that they had found a higher principle to replace the principle that ruled the polis.
しかし、哲学者たちが、政治的領域が人間の高次の活動のすべてを当然に賄うものではないことを発見したとき、(この発見がソクラテス自身によってなされたものであることは証明できないが、おそらくそう)、彼らは、すでに知られていたことに加えて、何か異なるものを発見したのではなく、ポリスを支配する原理に代わるより高次の原理を発見したのだと考えた。

The shortest, albeit somewhat superficial, way to indicate these two different and to an extent even conflicting principles is to recall the distinction between immortality and eternity.
やや表面的ではあるが、この2つの異なる、そしてある程度は相反する原理を示す最も簡単な方法は、不死と永遠の区別を思い起こすことである。

Arendt, Hannah. The Human Condition: Second Edition (English Edition) (pp.17-18).

相変わらずわかりにくいが、「物に関与する活動」と「純粋な思考」の二項対立の話を展開していると理解してよいだろう。後者は観照につながるもので、この後のアーレントの議論では排除されるものだ。この二つは「人間のまったく異なる二つの中心的関心事に対応している」とある。二つの中心的関心事ってなんだ?気になるけど難しそうなので後で考えよう(★宿題)。そしてここからタイトルの「不死と永遠」の話になる。不死が「事物に関与する活動」の原理に、永遠が「純粋な思考」の原理に、それぞれ対応するのだろう。そういう「分かりやすい明言」をしてくれないのがアーレント。

不死とは「死」という人間の特性を元に考えられた概念で、だから人間が向き合うことが出来るものだ。ギリシャ神話の神々は不死で、人間と向き合う存在だった。なにしろ彼らは人格神でとっつきやすいのだ。そしてアーレントはまたまた難しいことをいう。「宇宙は万物が不死で、人間だけが死すべきもの。円環に沿って動いている宇宙にあって、直線に沿って動くことが可死性で、それは人間だけの特性だ。」

ここは私には難しいので、考えたことを書いておく。
もちろん生物はみんな死ぬ。しかし生物学的生命は死を乗り越えて続く継続性を持っている。円環運動を継続する。そのなかで世代を超えて継続しないもの、直線に沿って動くものは「いわゆる自己意識」だ。「食べたい」とか「楽しい」とかではなく「私は○〇だ」と語るもの。主体なのに客体化された「私」という謎の概念。それだけが、死によって消滅することが出来る。すべてが円環運動をする宇宙の中で「始点と終点を持つ直線運動」をする。もしかしたら動物だって自己意識を持っているかもしれない。死の間際に「死んだら私は何処に行くのだろうか」と思っているかもしれない。その可能性はゼロではない。もしそうなら、可死性をもつのは人間だけじゃない。でも今は、アーレントに乗っかって、「可死性をもつのは人間だけ」ということにしよう。

そしてここからのアーレントの「不死」の話はとても面白い。
死すべきものの偉大さは、住家(仕事、偉業、言葉)を生み出す能力だ、つまり、死すべきものだからこそ、それらを生み出すことができたのだ、とアーレントは言う。そして確かにそんな気がする。一つの世代に閉じ込められ、死すべき運命を持った自己意識が無ければ、言葉は生まれそうもない。死の無いところに偉業も無いだろう。言葉も偉業もないところに、物語は生まれない。だから「私たちが仕事と呼ぶもの」は生まれなさそうだ。そしてアーレント曰く、この「住家を生み出す能力」によって、自分たちが「神」の性格を持つ者であることを証明するのが真の人間で、それ以外は動物であると古代ローマでは信じられていた。それが変わったのがソクラテス以降だ。つまりソクラテス前後を境に、人にとっての「最高のもの」が不死から永遠にシフトした。アーレントはそう言っているのだと思う。なぜ「不死」から「永遠」への転換が起きたのか。アーレントによれば、それは「ポリスとは不死なのか?」という疑念を抱いてしまったからだ、と書かれている。

ここでも私の思ったことを書いておく。
アーレントの言っているのは、人間は住家としてのポリスを生み出し、その永続性を証拠にして人が神の性格を持つことを証明していた。けど、ほんとにポリスってずっと続くのか?と思ったので、さらにもっと凄そうな「永遠」にシフトしていった、と言うことなのだろう。けど、さすがにこれは根拠に乏しい気がする。ポリスが永続しない疑念なんて、ソクラテスよりもずっと前からあったただろう。私の勝手な想像だけど、ポリスが永続しない疑念を抱きながら、人はずっとポリスの不死性にすがることしかできなかった。それがソクラテスの頃に「永遠を知覚する人(釈迦のような人)」が同時多発的に続々と爆誕していたのではないか。そして、そっちの方がよくね、と思い始めていたころにソクラテスが「みんなの心の中にある疑念」を暴き出しまくったことで「時代の空気」を加速したのではないだろうか。(ソクラテスとか全然詳しくないので、素人の適当な思い付きです。)

ここからは、懸案の「永遠」はどういうものか、についてだ。「純粋な思考」で「観照」と呼ばれるもの、これからの議論では切り捨てられるもの、それはいったいどんなものなのか。アーレントの説明は酷く抽象的でよくわからない。なぜなら言葉で表すことが、それ自体を壊わすもの、なのだ。それでも頑張って言葉にするなら、それは人間の基本的条件である「複数性」からの一時的な離脱(それは一種の死といえるもの)によって手にすることができる感覚らしい。所謂、今でいう宗教的体験が「永遠」の体験らしい。なるほど、わからん。けどこれは本質的な分からんなので、心おきなく次にいこう、次!

●「観照(Theōriaセオリア)」について
観照」という言葉については、もうちょっと深く考えた方がよさそうだ。なので少しくどくど考えてみる。ここでの「観照」とは、ギリシャ語の「θεωρία(セオリア・テオリア)」の訳語だ。この言葉は古代ギリシャ語で「見ること」を表す言葉から、後に「哲学的な仮説、思弁」などの意味を持つ様になった言葉。そこからtheoryなどヨーロッパの諸言語に派生したらしい。「観照」とは「純粋な思考」の行き着く先で、「見ること」が語源なのだ。つまり思考の源流が「見ること」ということになる。それはちょっと意外で、そこには何か示唆深いものがあるような気がする。ここで私は、以前「見ること」について悶々と考えたことを記事にしたのを思い出した。

この記事に書いたことを要約すると、私たちは外の世界を「ありのままに見ること」はできない、という話だ。できるのは「体を通して分かる部分だけを知る」だけ。触覚や聴覚なら、外の世界の一部しか捉えないことはわかりやすい。ありのまま感じ取ることはできないことは、そうだよねと思う。でも視覚の場合は別だ。強い違和感を感じる。私たちは「見る」ということに無条件の信頼を置いている。だからこそ私は、その違和感を記事に書いておこうと思ったのだ。つまり、私たちは「見ること」に対して、本当の機能以上の理想を投影している。
そして観照(セオリア)の話に戻る。この語は、単なる「見ること」から派生して、私たちが「見ること」に投影している理想、つまり「世界をありのままに把握すること」に、含意が寄って行ったのではないだろうか。つまり「観照」とは、いわゆる「心眼で見ることで真実を理解する」のような意味なのだろう。そしてアーレントは、それを「純粋な思考」の行き着く先にある、と言っているのだ。

ということで一章がようやく終り。次回(#4)に続く。(たぶん)


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