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1月「雛菊の願い」⑧

「星…フランス語なんてシャレたのつけたのね。でも何でフランス語? おばあさんがつけたの?」

「さあ…何でだろうね。祖母にも由来は、詳しく聞いてないんだ」

 店の名前が星を意味する言葉だと聞いて、他にもあれこれ聞いてみようとしたけれど、彼は運転に集中したいのか、本当に知らないのか、店の名前に関する話はそれ以上広がらなかった。

「駅に着いたよ」

 車が駅に到着する。彼との待ち合わせ場所に、その姿はまだないようだった。スマホにはまだ何の連絡も入っていない。

「姫奈(ひな)ちゃん?」

 車からなかなか降りない私を呼ぶ声に、私は慌てて顔を上げた。送ってもらったお礼を言って、車を降りるつもりでいたけど、何も言えないまま口を噤んでしまい、すぐにまた俯いた。

 彼は花屋にまだあの女性と居るのだろうか。もし彼が今待ち合わせ場所に現れたとしても、私は笑顔で迎え入れることが出来るだろか。花屋で彼に寄り添っていた女性の、残り香がするかもしれない彼の腕を取ることが出来るだろうか…と思えば、何も知らないフリをして笑える自信はなかった。

「…家まで送ろうか。どの道その足ではもう歩かない方がいいだろうし、お母さんも心配しているから、今日は帰って安心させてあげて。彼だってきっと、姫奈ちゃんが一番大事なんだから、そう言うんじゃないかな」

 シートベルトもつけたまま車のドアに手をかけて、動けないでいる私に声がかけられ、再びエンジン音が車内に響く。彼の話題が出たことに視線を向ければ、優しそうに微笑む視線が向けられていた。

「私…」

 口を開こうとした時、手の中のスマホが震えた。着信はずっと待っていた彼で、待ち合わせ場所に視線を移せば、いつの間に到着したのか、彼がキョロキョロと辺りを見回しながら私の姿を探していた。

「…やっぱり家まで送って」

「電話、いいの? 彼氏からじゃないの?」

「メールするから、大丈夫。お母さんのこともあるし、この足で彼には会えないから」

 今の私では彼に会えない。

 車が駅から発進し、家までの距離を走る間、車内は無言だった。車の走行音以外の音が聞こえない車内で、私は彼にメールを打った。お母さんと喧嘩してしまったこと、来る途中で体調が悪くなったから今日は会えないこと、連絡が遅くなってごめんなさいと伝えた。すぐに彼から返信メールが届いて、体調を心配してくれる言葉と、早く仲直りが出来るといいねと書かれていた。

 初めて彼に噓をついた。でもどこかでホッとしている自分も居た。彼のために頑張ったオシャレで靴擦れなんて、カッコ悪い自分を見られなくて済んだし、大人の女性に嫉妬するなんて、子どもじみた感情を知られることもない。これで良かった…次に会う時にはまた、とびきりオシャレをして大人の女性になって、彼に会おう。見た目も中身も彼の隣に立つために、相応しい女性の姿で…そう自分に言い聞かせた。

「…エトワールは、あの店をばあちゃんが出す時に出資してくれた人がつけた名前なんだ。フランス語を話す小さな街だか村だかの資産家の人で、まあ…俺の祖父に当たる人になるのかな、一応ね。うちのばあちゃんが若い時にフランスに留学してた時に知り合って恋に落ちたけど、その人には奥さんが居て…一夫多妻制が認められていたらしいんだけど、ばあちゃんは子どもがいれば生きていけるって、日本に一人で帰ってきたんだ。彼はばあちゃんを追いかけて一度は日本を訪れて、幼い母さんを溺愛して一緒に暮らしたりもしたらしいんだけど、結局奥さんの所に帰れってばあちゃんに言われて帰ることになった時、ばあちゃんの長年の夢だったお店を持ちたいっていう願いを叶えてくれたんだ。それでばあちゃんは今の花屋を夜の店が多い、人通りの多い路地とは離れた場所に店を構えたんだ。昼間の花屋じゃない、夜働く人たちや必要な人のために、夕方から開店する店を。それで店は、みんなの星に…そしてどこに居ても、繋がっている空の下で見つけられるように…って意味を込めて、エトワールって名付けられたんだ。今でこそ美談になってるけどね、花屋を継ぐ前の俺は受け入れられなくて…ばあちゃんが倒れた時もどうにか連絡したのに、見舞いには一度も来たことがなくて。花だけが届いたことがあって…ばあちゃんは幸せそうに笑ってたけど、俺はどうしても許せなくてね…随分酷いことを言ったんだ。そんな男がつけた名前の花屋なんて、なくなればいいって…言った時のばあちゃんの哀しそうな顔がね、今でも忘れられなくて…。大事な人なのに…大好きなのに、傷つけたんだ」

 何も話さないままでいると、運転に集中していた彼が突然ポツリポツリと呟くように話し始めた。最初は何の話を始めたのか解らなかった。勿論、それが少し前に聞いたお店の名前の由来だというのは理解出来たが、なぜ今その話を始めたのか、その意図が解らなかった。でもいつも優しい彼が見せた微笑みの裏にあった想いに触れ、哀しそうな笑みを見せた原因を知れば、途中で口を挟んでいい話ではないのだと思って、彼の話を最後まで聞いた。けれど最後まで話を聞いて、再び彼が見せた哀しみと苦しみがない交ぜになったような表情に、私は堪らず口を挟んだ。

「そんなの、おばあさんが一番解ってるわよ。傷つけたいわけじゃないことも、ホントは大好きだってことも…ちゃんと解ってる。さっき私に言ったじゃない、心配だからだって。好きだから解ってもらえないって思ったんだって…あなたもそうでしょ。大好きだから、大切な人を傷つけた彼を許せなかっただけなのに、おばあさんは彼を愛してたから、だからそれが嫌だったのよ。一緒に居る家族よりも彼を信じているように見えたから…でもそんなの、見えただけで、おばあさんはあなたのこと大事に思ってるんでしょう? あなたもおばあさんのこと大事に思って、だからおばあさんが愛した店を継いで、ずっとみんなの星を…おばあさんと彼の繋がりを今も守ってるんじゃないの?」

 堪らず口を挟んでしまったけど、私の言葉を聞いて唖然とする表情を見て、しまったと思ったけど既に口にしてしまった言葉は消せなくて、なかったことには出来なくて…フォローするにもうまい言葉が見つからなくて、結局言いようのない気まずさに口を噤んで俯くしかなかった。

「…ふふ、あはは」

 俯いた私の耳に届いたのは、漏れ出た彼の笑い声だった。気まずさと罪悪感を抱いていたのに、笑うなんて…と思って顔を上げると、見たことのない苦笑い混じりの微笑みで、彼は笑いながら泣いていた。

「なっ…ちょっと、何泣いてるのよ⁉」

 思わず慌てて声を上げれば、言われて初めて泣いていることに気づいたのか、涙を拭いながらまた笑い出した。

「あはは、初めて泣いたかも。しかも人前で…俺よりずっと下の子の前で。あ、子どもって意味じゃないよ。怒らないで。ただホント…何て言えばいいのかな、自分でも驚いているんだ。そっか…はは、気づかなかったな。嫉妬してたんだ、俺。なのに結局、ばあちゃんとあの人を繋ぐ星をずっと守ってるなんて…そっか、だからありがとうなんだ。店を継ぐって決めた時、ばあちゃんが言ったんだ、ありがとうって。そっか…姫奈ちゃん、ありがとうね。気づかせてくれて、ありがとう」

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