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【中編小説】純文学:暗黒に一縷の光ありけり。#1

二〇二二年三月二十七日。
古びたアパートの一室でおれは一人暮らしをしている。午前五時半、枕元に置いてある携帯のアラームが鳴り響く。無造作にアラームを止めた。部屋は静けさを取り戻し、鳥の囀り(さえずり)が耳を癒す。頭(かぶり)を振って脳内を揺さぶり、布団からのっそりと上体を起こした。その数秒後に「ピロン」と携帯が鳴る。携帯の画面に「メッセージ一件」と表示された。
日向優斗(ひなたゆうと)、三十二歳。大学卒業後、福井県福井市にある小さな家具屋に就職してから約十年が経った。人と関わることが苦手だから、基本的にプライベートで人とは会わず、ひっそりと暮らしてきた。ある人を除き。周囲の人からは“冴えない男”といった印象を持たれ続けてきたが、それについて一ミリも否定できないし、それでも別に構わない。
春の、もわっとした生暖かい空気が全身に纏わりつく。背中と額が、ベトっと汗で湿っている。六畳の部屋にある唯一の窓から光が差し込み、その光がテーブルの中央に置いてあるガラス細工に反射して四方八方に伸びている。
右手の人差し指で目を擦り、欠伸をしながら、重い足取りで洗面所に向かった。水道水で適当に顔を洗い、流れ作業のごとく歯磨きを済ませる。コンビニで買った食パンを袋から一枚取り出し、そのままかぶりつく。味気のない食パンを口に頬張り、野菜ジュースで一気に流し込む。「ピロン」、またもや携帯が鳴った。メッセージは二件とも咲野凛(さきのりん)からである。〈ちゃんと起きてる?〉〈うん、起きてるよ〉、いつものやり取りを済ませ、家を出た。
凛は、東京に住む、現在二十歳の大学二年生。幼少期に父親の仕事の関係で、世界中を転々としてきたらしい。出会った当初「私、日常会話くらいなら十ヵ国以上話せるよ!」と得意気に語っていたのがとても印象的である。凛は大学生ながら卓見(たっけん)があり、いつもおれのことを気にかけてくれる今や必要不可欠な存在だ。仕事の日の朝は、少しでも返信が遅れると立て続けにメッセージを送ってくる。いつだっただろうか、記憶が定かではないが「おれは朝が弱いんだ」と話した時から凛はそのスタイルを貫いている。
おれは就職で親元を離れ、大阪から福井県へ移住してきてからの数年間、惰性で仕事をこなし、刺激のない生活を送っていた。
今日もいつも通り職場に着き、家具搬入専用の倉庫の横にあるちょっとしたスペースに原付をとめた。関係者専用入口と書かれた年季の入ったドアに備え付けられた自動ロックシステム。そこに、パスワードを入力するのだが、一発でロックを解除するためにはボタンの押し方にちょっとしたコツが必要だった。弱すぎず強すぎず、それぞれのボタンを少し長めに人差し指でググっと押し込めばうまく解除されることを知った。それを知ったのは、入社してからかなり後になってからである。関係者専用入口のドアのロックを一発で解除できるようになれば、一人前とみなされる謎の風習があったため、たった四桁の数字を入力するだけなのだが、毎度ボタンを押す人差し指には無駄に力が入る。今日も、無事に一発でロックを解除できたことで満足感に浸り、そのまま倉庫の狭い通路を通過して二階につながる階段を上った。
休憩室兼更衣室がある部屋は、その階段を上りきったすぐ左手にある。休憩室には会議室などでよく置かれてあるような長テーブルが陣取っており、そこで従業員は昼食をとることになっていた。休憩室の奥には男女の更衣室のドアが隣合わせに並んでいる。出勤早々に、各々(おのおの)指定された制服に着替えるわけだが、唯一の同期入社である橘(たちばな)健一(けんいち)と更衣室でいつも鉢合わせる。
「おっす。お前、今日も体調悪そうだけど、大丈夫か?」橘がこちらには一瞥もくれずに訊いてきた。
「おお、いつも通りだよ。橘はこの会社に入って満足してるんだっけ?」特に意味のない質問を投げかけた。このくだらない質問をするのは入社してから何度目だろうと心の中で呟く。
「またその話かよ。だから、してるわけねぇだろー。でも、特にやりたいこともないし、家族を養うためにとりあえず働いてんだよ。そんなことより、そろそろお前もいい相手見つけて、さっさと結婚したらどうだ? 少しは勤労意欲が増すかもしれないぞ。アハハハッ」明らかな作り笑顔を浮かべ、気の抜けたような声で橘は言う。
橘は二十代で結婚し、一人娘がいる。携帯の待ち受けを娘の写真にして、定期的に社内の人間に見せびらかしている様子を見るたび、よっぽど子煩悩なんだろうと想像していた。彼の一人娘の写メを見せつけられた人は、決まって「うわぁ! かわいいねぇ!」「こんなに大きくなったんだねぇ!」「橘さんにそっくりですね!」と言った具合にお世辞ともとれる言葉を発して煽てていた。
そんな中、橘が自慢話をしてきても、無感情で「ふーん」と返していたせいか、気づけばおれにはあまり娘の話をしなくなっていた。橘は独身のおれからいつもマウントを取ってくる。以前からその態度がやけに鼻についていたので、それはそれで都合が良い。
おれとは対照的に橘は身なりにもかなり気を使っていた。いかにも「できる男」といった風貌である。いつもお洒落な服を着て、髪型もばっちりとセットし、全身から清潔感を漂わせている。いかにもA型といった感じだ。
彼の雰囲気から考えて、こんな小さな家具屋の店員をしていることが、なんだか意外だった。メガバンクや大手商社でバリバリと大きな仕事をそつなくこなしている、そんなオーラを漂わせているのに。
それに比べておれは休みの日でも仕事の日でも、ベージュのズボンに白い無地のTシャツ。あえて自分自身を擁護するなら“シンプル・イズ・ザ・ベスト”をモットーに生きているタイプの人間である。だから身なりにもそこまで拘りを持たず、あくまで「シンプルに生きたい」、そう考えている。数ヵ月に一度しか髪は切らないので、黒髪が無造作に伸びきっている。さらに髭は三日に一回しか剃らないと決めている。当然、不潔な印象を持たれることも少なくない。とにかく身の回りのことすべてにおいて、無頓着なのである。おまけに仕事もできない典型的な“ダメンズ”でもある。

#2へ続く

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