藪内家 燕庵(古田織部の茶室)
「藪内家 燕庵(えんなん)」
茶道藪内流宗家を代表する茶室。
三畳台目に一畳の相伴席を付けた、いわゆる「燕庵形式」と呼ばれる形式で、古田織部の好みと伝えられています。
古田織部は利休七哲の1人にも数えられる茶人で、織田信長に従って戦功を重ねた武将でもありました。利休の死後は、豊臣秀吉の御伽衆(※将軍や大名の側近に侍して相手をする職名で相談役のようなもの)にも加えられ、茶の湯の名人として大いに開花し、徳川家(将軍家)の茶道指南役として茶匠として最高の地位につきました。
その後、元和元(1615)年、大坂の陣で謀反の疑いをかけられ、師である利休と同じく自刃へと追い込まれます。(※詳しくは織部が主人公の漫画「へうげもの」を、ぜひ!)
藪内家初代剣中(けんちゅう)の妻が織部の妹であったことから、大坂の陣の際、自身の屋敷の茶室を譲って出陣したと伝えられています。これが、藪内家に伝わる燕庵の始まりです。
二代真翁(しんおう)の時に現在の地に移り、露地も含めて忠実に再現されたそうです。この茶室は惜しくも元治元(1864)年、幕末期の兵火(蛤御門の変)で焼失。
しかし、それ以前から同家には燕庵について、「相伝を受けたもののみ写しを許すこと」「写しは本歌に絶対忠実であること」「本歌が失われた時は最も古い写しを同家に寄付すること」という決まりがありました。
その決まりに従い、慶応3(1867)年、摂津国有馬(兵庫県神戸市)の門人・武田儀右衛門の屋敷にあった写しを移築したのが、現存する現在の燕庵だそうです。
内部の間取りは三畳台目で、東西に三畳を並べ、西面に床の間、北に台目構えの点前座、南に二枚の太鼓襖を介して一畳の相伴席(しょうばんせき)が付くという構成です。燕庵の最大の特徴はこの相伴席が付くことにあります。
客座とひと続きなので、襖を外すことで座敷を広くも狭くも使うことができ、また侘びに徹することなく上・下段の構成を組み入れて貴人を向かい入れる場合に臨機応変に対応することもできます。
それが、階層意識を重んじる武家社会に受け入れられ、大いに流行したそうです。これは織部の考案であり、利休以降の茶の湯(※武家のための茶の湯)、織田・豊臣から徳川への移行という狭間で、時代が求めたものでもありました。
もう1つの特徴は、師である利休とは対照的な窓の多さ。本席で八窓、相伴席も含めると十窓もあります。
下地窓、連子窓、突上窓のほか、床の墨蹟窓に花入れの釘を打ったのは織部の創始とされ「花明り窓」とも呼ばれています。
点前座勝手付の窓は上下に中心軸をずらして連子窓と下地窓を配置したもので「色紙窓」とも呼ばれ、これも織部が始めたものです。
これらの工夫は採光のためだけではなく、座敷の景のためとされており、機能よりも意匠(デザイン)としての効果を狙ったものと思われます。織部の茶室にはこの「景」を重んじる工夫が随所にみられます。
茶道口の方立(縦材)は竹で、右手で運ぶ建水が角に当たるとのことで選ばれました。そうであれば、横に並ぶ材の床框は黒色の塗框でないと取り合わないとの考えから、床框は真塗。これも床のある西側の壁面全体を「景」として捉えて、用材を組み合わせたものとされています。ここでも「景」がキーワードで、意匠(デザイン)を重んじたことが見てとれます。
床柱は大きく面を取って釿目(ちょうなめ)を施した杉材、中柱は赤松皮付の曲材の台目構えです。点前座側の袖壁には大小異なる棚を重ねた雲雀棚、典型的な織部好みの点前座が形成されています(※他には八窓庵や猿面茶席など)。
江戸前期に一斉を風靡し、武家社会に受け入れられたこの燕庵形式などの「武家のための茶室」は、織部の一番弟子でもあった小堀遠州へと引き継がれ、優れた茶室が多数生み出されてゆきます(※忘筌や擁翠亭、密庵など)。
後世で芸術家として尊敬を込め「へうげもの」と呼ばれることとなる、織部の工夫と創意が随所に見られる茶室、燕庵は藪内家に現存し、重要文化財に指定されています。
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