女曲舞

鎌倉幕府以来、武家文化は、平安朝の貴族文化に則って
これを新しく再生していく。そこに取り入れていない
ものがある。それは、大陸から入ってきた雅楽、伎楽の
怪物面である。鎌倉武士は田楽を好んだ。鎌倉末期に
近江猿楽諸座による田楽の新たな方向、歌舞的な表現
の舞台へと発展する。天女の舞は、信長公記からも様子
を想像することができる。
武家文化が望んだ舞台芸能は、写実的な表現を主とした
演劇に向かわず、歌舞を元にした舞踊に向かい、感覚的
な美による新しい猿楽を創成していった。
その元ともいえる中の一つに、古く源平時代の白拍子の
影響を受けた「女曲舞」の存在がある。世阿弥の
父、観阿弥は、女曲舞の流れを取り入れた。これが私達
の研究している歌舞、舞踊の原点である。
「女曲舞」というものがどんなものか、諸本から読むと
歌の意味に応じて、舞踊によりその内容を表現された舞
踊演技と伝えられている。
舞踊で表現をすることで、物真似芸の持つ直接的な演技
を避けることができたのである。当時流行りの物真似を
舞踊として表現する(新風猿楽)の創発となった。
ここに、進化が、美しさを観受する、人間のこころの
関与を想像することができるのである。



参考絵図
国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」より
『尾張名所図会 附録 巻5』 岡田啓、野口道直 編、1930~1933年

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