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書籍:はじめての哲学的思考

「良い教育とは?」「幸せな生活とは?」
「良い政治とは?」「幸せな社会とは?」

現代を生きる私達は、様々な課題に向き合っています。
日々の生活に関わるものから、社会的なものまで。

SNS上でもこれらの課題に対する発言を見かけますが、どうやら、議論が噛み合っていなかったり、喧嘩になったりしているように思えます。

課題に向き合って対話をするには、ちょっとしたコツを知っておくことが大事です。

哲学者、苫野一徳さんによる『はじめての哲学的思考』という書籍では、哲学的な思考方法について教えてくれます。

以下、この書籍からの学びを記載いたします。
※「これが唯一絶対に正しい定義」というわけではなくて、このように捉えられるよ、というものです。

哲学の役割

「哲学は何か」という問いに、一言で答えるとしたら「物事の本質を捉える営み」と言えます。

現代は「相対主義」の時代だと言われています。

相対主義は「人それぞれの見方があるよね」という考え方です。
それは確かにそうですが、その一言で終えてしまうと、物事の本質に迫ることはできません。

極端な話、「現代において武力を用いた侵略行為を発生させないためには」という問いに対して「侵略行為をどう捉えるか人それぞれだよね」と終わらせてしまったら…

私達の生活から国際社会までの、様々な問題がありますよね。
それらの問題に向き合う時に、私達は対立関係から協力関係にシフトするほうが、問題の解決が早まるでしょう。

その際に「共通了解」のようなものが必要になります。

「これだったら誰もが納得する」という所に考えを深める営みが、哲学だと言えます。

宗教と哲学

宗教は、物事に対して「神話」で答えを出しています。

「どのように世界は始まったのか」「我々はしんだらどうなるのか」といった問いに対して、聖典に記載された神話にて回答されます。
実際、天地創造や死後については、世界宗教でも民族宗教でも触れられています。

それらの神話は、科学が発展した現代では「確信する」ということは難しいでしょう。
しかしながら、神聖なものを神聖と感じる感覚は、現代の私達にも備わっています。

異教徒であっても、フランスのパリのノートルダム大聖堂や、トルコのイスタンブールのアヤソフィア、あるいは、日本の山奥にある寺社などには畏敬の念を抱くことでしょう。

そのような感覚があるからこそ、宗教は、信仰として機能します。
神話や儀礼を共有し、信じることで、集団を強固に結びつける働きを持ちます。

一方、哲学は問いをもって疑うことが重要となります。
この「信じる」と「疑う」という点は、宗教と哲学の大きな違いとなっています。

科学と哲学

「疑う」ということは、科学における重要な考え方です。
疑うことで科学は発展し続けてきました。

ただし、これは科学が哲学に取って代わったということではありません。

哲学は、むしろ、常に科学に先立っています。

科学は、「事実」や「メカニズム」を明らかにします。
一方で、哲学は「意味」や「価値」に向き合います。

科学で明らかにする対象物は、必ず認識されてなければなりません。
「意味」が先にあります。

「病気」とか「戦争」とか「天気」とか「宇宙」とか、こういったものは私達が意味を認識しているからこそ、科学の研究対象となりえます。

社会科学においても「教育」について研究をするのであれば、「そもそも教育とは何か」という意味の本質を見出す必要があります。

科学の土台として、哲学が存在しています。

バッドプラクティス

物事の本質を見出すような哲学的な思考をする上で、わかりやすいバッドプラクティスがいくつもありますが、そのうち二つが書籍の中で紹介されています。

  • 一般化の罠

  • 問い方のマジック

一般化の罠

「一般化の罠」は、ただ一人の経験を、あたかも一般的なものとして議論を進めることです。

社会問題を個人の問題としてしまう「自己責任論」などが、これにあたります。
病気や介護など、様々な理由で現状を変えられない人に対して、最初から恵まれた環境で育った人が「努力不足だ」と一蹴するのは、過度な一般化といえます。

ここには強い信念が宿ることが多いため、他者の状況が見えづらくなり、あたかも自分の経験を、絶対的な法則とみなしてしまいがちです。

問い方のマジック

「問い方のマジック」は、二項対立的な問いです。

「人間が生きることに意味はあるのか、意味はないのか」

このような二項対立の問いをよく見かけると思いますが、ここには信念の対立が生じるため、議論が決着することはありません。
はじめから本質にたどり着けない構造をもった問いがあるということを認識しておくことが大事です。

例えば、先ほどの問いを以下のように変えてみます。

「人間が生きる意味を感じるのはどんな時か」

これは本質に向かって進める可能性がある、価値がある問いだと言えます。

A or B のような片方を選び取るものでなく、 A and B のようなどちらもできるだけ納得できる C を考えることが重要です。
このような C を「共通了解」といいます。

帰謬法(きびゅうほう)

ビュー数を重要視するメディアや、いいね数を重要視するSNS環境では、相手をいかに言い負かすのかというゲームが行われます。

相手を言い負かす手段は、古来からずっと存在しており、それは「帰謬法(きびゅうほう)」という名前がついています。

帰謬法は、相手の主張の矛盾を指摘したり、例外を見つけ出して、そこをひたすら攻撃するものです。

これは非常に簡単で、「そうではないケースがある」ということを挙げられれば実行可能なものです。
相対主義的なものの見方をすれば、すぐに実現可能な攻撃手段です。

ただ、これでは「共通了解」にたどり着くことはできません。


ではどうしたらよいか、というところでこの書籍では、過去の哲学の営みについて説明されます。

哲学の積み重ねが、共通了解や本質にたどり着くための数多くの手段を与えてくれます。

すごく雑に書くと…

  • 真理や客観的な事実はなく、すべてが各自の確信や信憑。

  • その確信や信憑は、各自の欲望によるもの。

  • そのような前提のもと、相互に納得できる第三のアイデアを出す。

ということのようです。
このあたりは、もっと勉強しないと腹落ちしなさそうな感覚があります。

なんとなく、ルソーの提唱した一般意志の概念に近いもののような気がします。

私達は「意味の世界」に生きていて、その意味や解釈は人によってかなりバラバラです。
それゆえに、議論が噛み合わないといったことが起きています。

そのように世界と他者を理解することが、共通了解や本質にたどり着くための第一歩のようです。

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