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勉強の哲学

とある勉強をしている中で、こんな体験はありませんか?

「専門用語を不意に使ったことで、場の雰囲気が壊れてしまった。」

その時に、「周囲の雰囲気に合わせたほうがよかった」と思うと同時に「いまのこの場は自分にとって場違いなのでは」と思ったかも知れません。

勉強するということは、どういうことなのでしょうか?

『勉強の哲学』という書籍では、以下のように始まります。

「勉強とは、自己破壊である。」

私達は、基本的に周囲の雰囲気に合わせて生活しています。
その環境のノリにあわせて、空気を読み、浮かないようにしています。
出る杭は打たれてしまいます。

そのような状況において、勉強するとどうなるでしょう。
その環境におけるノリに対して疑問をもつことになるでしょう。

結果、ノリが悪くなり、空気を読まず、浮いてしまいます。
これは、同調圧力から自由になり、新しい可能性を開くことが勉強であることも言い換えられます。

新しい自分になるための自己破壊が、勉強なのでしょう。

『勉強の哲学』は、勉強そのものの構造について、メタな視点で考える本です。

その構造について、自分なりの整理を書いてみます。
「勉強することで生じる言葉の場違い感」のようなものについて、何かを感じ取ることができるかもしれません。

※ちなみにライフハック的な「勉強の仕方」ではありません



言語と環境

環境のノリ

私達は、どこかの環境に属しています。
地域、学校、会社、家族など。

これらの環境(≒共同体)の中では、明文化されていない「ノリ」があります。
いわゆる「こうするもんだ」というものがノリで、客観視できていないものでもあります。
そのノリに乗ることで、「その会社の人」とか「その地元の人」になっています。

その環境のノリに乗っている限りにおいては、様々な行動が制限されます。
極端な考え方をすると、「こうするもんだ」というドレスコード(以降はコード)から外れてしまうと、爪弾きにされ、村八分にされてしまいます。

言語のインストール

言語は、他の人が使っていることを見聞きしてインストールされていきます。

これは、使われている言語には、環境のコードが染み付いていることを指します。
言語の意味は、環境のコードの中にあると言えます。

例えば、「Apple」は、キリスト教圏においては「赤い果物」以上の意味を持ちます。
日本においての「菊」は、ただの「花」ではないですよね。

「個人(Individual)」や「民主主義(Democracy)」という概念は、日本にも輸入されましたが、西洋の意味合いとはズレた魔改造された概念として日本人にインストールされています。

言語を習得することは、その環境のノリに乗っ取られるということでもあります。

ノリの引っ越し

勉強は、他の視点を手に入れることです。
それは、別のノリへの引っ越しであると言えます。

例えば、英語をしっかり学ぶことは、英語的なノリへの引っ越しが起こります。
カナダの特定の土地にホームステイをして、カナダのその土地の言語を使って生活をすると、カナダ的なノリへの引っ越しが起こります。

DXを学ぶことは、電話・ファックス・ハンコのノリから、Slack・GitHub・Notionのノリへの引っ越しとなるのでしょう。

このノリの引っ越しの間で、私達は居心地の悪さを経験します。

引っ越しは、すぐには慣れません。
とある環境で慣れない言葉を使うと浮きます。

言葉そのものの状態

例えば、日本社会で「コンセンサスコストが高い」という話をすると、「コンセンサス」という言葉が浮いてしまいます。
「合意」という言葉をわざわざ横文字で、ある種、カッコつけて言っているかのように、多くの人から判断される場合もあるでしょう。

しかし「コンセンサス」という言葉は、日本語訳の「合意」とは粒度や質感が異なります。
それを理解したうえで、わざわざ「コンセンサス」ということばを使い続ける中で、以下のような感覚を得ることができます。

  • 言葉の意味は変更可能である

  • その言葉の意味は環境によって変わる

そして、その中から言葉が、環境から宙ぶらりんになった「言葉そのもの」の状態が存在することを認識します。

この言葉が「言葉そのもの」になった状態は、引っ越しの最中において、二つの環境のはざまで起こります。

「言葉そのもの」が、特定の環境のノリから自由になったことで、そこに新しい可能性を感じることできます。

勉強している時に発生していることは、この状態だと言えます。
「こうするもんだ」という制限から脱して、ピュアに学びをインストールできる状態であるといえます。

アイロニーとユーモア

コードを脱する

勉強によって、環境から浮いた言葉を使っている状態は、自由の余地がある状態だといえます。

この環境をあえて意図的に意識することで、勉強をより理解しやすくなりそうです。

このときに使える概念が、アイロニー(皮肉)とユーモア(洒落)です。
アイロニーはツッコミ、ユーモアはボケとも言い表すことができます。

ツッコミやボケは、発言が場にそぐわないものです。

これらの手段を使ってコードを脱して、自由に言葉を使える状態にすることを意識できると、周囲の環境から脱した、深い学習に繋げられる可能性が生じるといえそうです。

ツッコミ=アイロニー

会話の中のコードを疑うことがツッコミです。

ぶーーん、どーーん!

「いや、いってぇな、どこ見て運転してんだよ」
って言えてる時点で無事でよかった。

時を戻そう。

ぺこぱ

ぶーーん、どーーん!

いや、二回もぶつかるってことは、俺が車道側に立っていたのかもしれない。
もう、誰かのせいにするのはやめにしよう。

時を戻そう。

ぺこぱ

例えば、大学受験のために子供を学習塾に通わせている親たちが「大学進学は大事」という前提(コード)で話が成立していたとします。

その中で「大学進学ってどうして大事なんでしたっけ?」という発言をしたら、それはコードから外れることであり、ツッコミとなります。

その環境において当然とされている「こうするもんだ」に対して、疑って否定をすることがツッコミ=アイロニーです。

ボケ=ユーモア

一方、ボケは会話のコードからズレた発言をすることです。

例えば、「勉強は大事」というコードの会話の中で「勉強って手羽先みたいですよね」という切り出しをしたら「どうゆーこと?」というリアクションになります。

「肉がついてるところと、肉がついてないところがあるから、ちゃんと美味しい肉のところを食べるような勉強が効率いいよね」

みたいな意図での発言だとすると、異質だけど、意味が有る発言となります。

このような、会話のコードから脱した、別の視点を提供することがボケ=ユーモアです。

ナンセンス

コードの脱し方には、ハチャメチャなことを言うという方法もあります。

急に踊りだしたり、文脈から外れ過ぎたりすることは、意味が全く通じなくなります。

例えば、「勉強って手羽先みたいですよね」に対して、「じゃあ塩をまぶすよりもテリヤキのほうがいいってことですね!」と返すと、もはや意味がわからなくなります。

これは、意味がわからない、つまりナンセンスとなります。
ナンセンスは、アイロニーやユーモアが過剰な状態となります。

アイロニーやユーモアを意識する上では、ナンセンスの領域に突入しないように気をつけた方が良さそうです。

アイロニーとユーモアの特徴

アイロニーは、コードの根拠を疑います。
なんとなくのノリに対して、ダメ出しを行います。

アイロニーを深めていくと、言葉の真の意味を探る方向に進んでいきます。

特定の環境に依存しない、言葉そのものの意味を、永久に求めることになります。
これはどこかでストップをかけないかぎり、「それはなぜ?」を無限に繰り返します。

これが、アイロニーがナンセンスに突入するルートです。

一方、ユーモアは異なる解釈を提示します。
「こうゆー考えもあるよね」という、複数性を認めることになります。

ユーモアが広がると、可能性が広がっていきます。

環境ごとに異なる、様々な言葉の意味が、飽和していくことになります。
これも、どこかでストップをかけないかぎり、「他にも」を無限に繰り返します。

これが、ユーモアがナンセンスに突入するルートです。

享楽

言葉を享楽的に使う

特定の分野の言葉を覚えると、その言葉をついつい使いたくなっちゃいます。

その理由の一つには、シンプルに口が気持ちいいから、ということがあるでしょう。

子供が変な言葉(特にお下品なお言葉)を覚えたら、それをとにかく使ってみるのは、「言いたいだけ」で意味はありません。

大人でも、多かれ少なかれ、そういった口に出したいという欲求はあるようです。

この時、言葉は「言葉そのもの」であると言えます。
周囲のノリから開放された状態の「言葉そのもの」です。

※子供のお下品な言葉は、大抵がノリですが…

勉強のサイクル

勉強は、ツッコミ、ボケ、享楽がくるくる回るサイクルのようなものです。

周囲のノリに対してツッコミを入れる。
そして、多様な視点としてのボケをかます。

すると、コードから脱した状態となった「言葉そのもの」に向き合えるようになる。

そこで言葉を享楽的に使い、学びをインストールしていくことになります。


…と、『勉強の哲学』の内容を自分なりに解釈してみました。

実際は、このようなまとめ方をしているというより、もっとより深い「問い」とそれに対する「思考」が繰り広げられているので、興味がある方は是非ご一読ください。

環境のノリにマッチしていない、「どうしたらそのノリから脱してもっと自由に生きられるのか」といった問いを抱えている人は、それなりにいらっしゃると思います。
あるいは、かつてそのような状況にいた、という人も少なくないでしょう。

そのような人にとって、『勉強の哲学』から何かしらのヒントをもらえるような気がします。


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