罪悪感との闘い 後編
前々回書いた記事の続き
今年に入ってから、働くペースをダウンしています
それによって平日1人で動ける時間が増えました
身体的にも精神的にも余裕ができた一方で
なぜかずっと罪悪感を抱えています
その罪悪感と向き合ってみた記事です
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前回の記事で、罪悪感を生む要因として以下の答えにたどり着いたと書きました
今回は、「働く」の捉え方について 書いていこうと思います
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「働く」のイメージ
みなさんは、「働く」と聞いて何をイメージしますか
私は
・対人で発生する業務
・個人で行う作業に関しても目的が明確なもの(プレゼンに向けた説明用の資料や提出が必要な書類作成など)
といった作業を思い浮かべます
そして
・時間で評価されるもの
というイメージがあります
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私の今の「働く」の実際
今私が行っていることをこれらに振り分けてみると
・訪問リハビリの研修→私がリハビリを実践するわけではないので「働いている」という実感は得にくいが、時間で評価されるため「働いている」感覚はある
・研修内容の報告書の作成→報告先が明確であり、「働いている」感覚ではある
一方で
・新しい事業に向けてのあれやこれや考える、その思考に伴い調べ物をしたりする
→資料作りをしていることはギリギリ働いている感覚ではあるが、構想を練る、など思考自体は「働く」とは考えにくい
そして、思考の時間は時間での評価が行いにくい(日常の中で細かく行われているし、もちろん打刻するわけにはいかない)
さらに言えば、「訪問リハビリ」に関して思考していても、気づいたら今回のように「働くとは」みたいなテーマに移行していたり、思考はあっちこっちにいってしまう
そう考えると、今の私の「働く」は、
他者から見えて業務や作業 かつ 時間で評価しやすいものと
他者から見えない思考 さらに 時間で評価しにくいもの
とに大きく分かれているような気がする
後者があるからこそ、今後のパフォーマンスに繋がるわけだけれど、やはり前者とは違い評価をしにくい部分なので、後者の時間が長ければながいほど
「私は何をしているんだろうか・・・働いていない気がする・・・」
という感覚になってしまうのかなと思う
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創造する、という仕事
そんなことを考えた時に思いついたのが
作家さんや画家の方など、いわゆるアーティストと言われる職業
こういった方々は創造することが仕事
完全に憶測だけれど、思考によって成果物を生み出している、と思う(正確には思考ではなく感じる、なのかもしれないけれど)
これを極端に考えると
100時間の思考(+αの作業)で100万の価値を生む人もいるだろう
しかし、私の「働く」のイメージだと
時給1000円の場合、100時間の作業によって100万の価値が生まれる
どちらがいい、優劣の話ではなく
「働く」と言っても、色んな働くがあるのだろうということを改めて感じた
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今まで、時間や他者から見える作業で評価される働き方をしてきた
それが成果や他者から見えない作業が必要な働き方に移行しているところ
しかし、新しい働き方であるのに、「働く」に関する価値観が今までと同じであることから罪悪感を感じるのかなと思う
一言「働く」といっても
働き方は多様であるし、一人の中で色んな働き方を持っていたっていいわけで
自分の中での最適な組み合わせをその時々で探して
そして、色んな組み合わせをしていることを許可してあげられれば、罪悪感は減るのかなと
罪悪感と向き合った結果
色んな働き方が自分の中にあることを許容してあげる
そんな対策にいきつきました
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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