作為性は小説の質を落とすのかー乗代雄介『それは誠』から考えるー

 芥川賞の受賞作発表後におこなわれた講評よると、乗代雄介『それは誠』は2番目に高い評価だったがすべて作者の脳内で作られたまとまりのよさを指摘した委員がいたとの理由で落選となりました。乗代雄介さんは今回を含め芥川賞の候補に選ばれた4回すべてにおいて先のような評価を受けています。はたして作為性、すなわち“頭の中でつくった感じ”は小説の質を落とすのでしょうか。

なぜ『それは誠』に作為性を感じるのか

 原因は大きく、時刻表トリックを用いた構造と登場人物の性格にあると思います。まず前者について、本作では高校生である誠の班はとある事情により修学旅行の自由行動で日野にある真のおじさんの家に向かいます。そして物語終盤、誠たちはおじさんの家が日野にあるおかげで成立する仕掛けにより良い結末を迎える。こうなると読者は「出来過ぎじゃないか、この仕掛けのために家を日野にしたんだろ」と作為性を感じてしまいます。

 また、後者について、どうも本作は登場人物が良い人すぎます。修学旅行という人生においてめった経験できないイベントの1日が潰れる&先生に叱られるリスクを誠以外の班員が引き受ける道理をどうしても見つけられません。そうなると私は「そりゃあ、ここでごねたら話すすまないよね」というこの上なくひねくれた思考に陥ってしまうのです。

作為性は小説の質を落とすのか

 では作為性は、小説の質を落とすのでしょうか。私の意見は、大衆文学としての質は落ちるが純文学として価値は落ちない、です。

 そもそも、小説はものすごく脆い存在です。10年前に将棋の藤井聡太七冠の実績を小説にしたら間違いなく「ありえない」と叩かれます。しかし現実で七冠を取れば皆がすごいと拍手する。「現実は小説よりも奇なり」で片づけられてしまうのです。だからどれだけ上手く書いてもいじわるく読めば作為性は見えます。そして作為性は「この話はしょせん作り物だからな」と小説と読者の距離を引き離し、小説を“おもしろくない”ものにしてしまうのではないでしょうか。

 しかし「純粋な芸術性を目的とする文学」として純文学を定義したとき、作為性は純文学としての作品の質を落とすとは思えません。美しい絵画を見て「いい絵だけどしょせん作り物だからな」と思うのはいくらなんでも心が荒みすぎです。美しい絵画は作り物だと分かっていても心を引き込まれます。これを純文学にあてはめたならば、美しい表現に魅了され、その物語に心動かされる作品はたとえ作為的でも純文学として評価を落とす理由にはならないのではないでしょうか。

 芥川賞は純文学の新人賞です。であるなら、作為性という面で本作を低く評価するのはいささか疑問が残ります。次回こそ、芥川賞を受賞されることを期待しております。

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