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5月のある雨降る昼間に100パーセントの割り込みに出会うことについて

こう考えれば、毎日はきっと面白くなる。

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 五月のある雨降る昼間、ドン・キホーテのレジ前で僕は100パーセントの割り込みとすれ違う。正直言って腹立たしいことこの上ない。人目をはばからず文句をいう度胸があるわけでもない。だからといっておおらかに見過ごすことができるわけでもない。
 
 突然、目の前からおばあちゃん、母、息子、娘と一緒にお店の店員さんが僕の並ぶレジの前に大量のお寿司を置いた。サーモンだけのパック。豪華絢爛たるネタが敷き詰められたパック、大量だ。“山のような”という比喩はこのときのためにあるのだろう。割り込みとは辞書で調べると行列の途中に強引に押し入ることを指すらしい。だから行列の先頭でレジの順番を奪われたことは厳密にいれば割り込みとも呼べないだろう。
 
 しかしそれにもかかわらず、1メートル先から僕にはちゃんとわかっていた。あの店員と家族は僕にとって100パーセントの割り込みなのだ。彼らの姿を目にした瞬間からぼくの胸は地鳴りのように震え、口の中は砂漠みたいにカラカラに乾いてしまう。

 たとえ一分でもいいからあの家族と店員に話をしてみたいと僕は思う。彼らの身の上を聞いてみたいし、僕の怒りを打ち明けてもみたい。そして何よりも、二〇二二年の五月のある雨降る昼間に、私が楽しみにしていたチーズちくわを食べる時間が延期されてでも割り込みに至った運命の経緯のようなものを解き明かしてみたいと思う。

 さて、僕はいったいどんな風にあの店員と家族に話しかければいいのだろう?
「すみません、僕のこと見えてますか?どう考えても割り込みですよね?」
これはあまりにも馬鹿げている。まるで反社会的勢力の恐喝みたいだ。
「こんにちは。ここらへんに割り込みされないレジってあります?」
これも同じくらい馬鹿げている。だいいち、およそ80億人が肩身を寄せ合って暮らすこの世界にそんなレジがあるわけもない。
結局、なにも言うことはできないまま、店員と家族の姿は既に人混みの中に消えていた。

 私は泣き寝入りをしたというわけだ。しかし僕にはちゃんとわかっている。きっと僕とあの家族、いやこの世界にはこんな物語が存在していたのだ。その物語は「明日」で始まり、「悲しい話だとおもいませんか」で終わる。

***

明日、世界が終わる。
 原因は1億年前から衝突が約束されていた直径5キロメートルの隕石だ。この隕石はあまりにも速すぎた。地球がこの事実に気づいたのは悲しいことに衝突のちょうど24時間前。この大きさでは地球上どこにいたって逃げ場はない。各国政府は急いでこの事実を発表した。日本政府の発表は午前10時、私は耳を疑った。

 運命とはちょっと生意気でいじらしいものである。衝突予想地点は北海道の田舎、とあるドン・キホーテ、私が毎週土曜日に足を運ぶドン・キホーテだったのだ。これも何かの縁だ。私は最後の晩餐を購入すべくドン・キホーテへと向かう。どうせ明日には世界が終わるんだ。好きなものだけたらふく食べてやろう。男は店内をめぐる。

 しかし、悲劇は重なる。明日にはすべてがなくなる、これは想像以上のストレスだったのだろう。男はあろうことか軽い記憶喪失を起こしてしまった。絶対に忘れてはいけない“世界が終わる”という事実を一時的に忘れてしまったのだ。そして私はいつもの衝動に駆られてチーズちくわを買い物かごに入れる。

 レジでは1秒でも残りの人生を無駄にしたくないという欲望と渇望が渦巻いていた。そして私はその渦に飲み込まれることとなる。目の前には地球最後の1日を家族で過ごす4人連れの姿が。買い物かごの中には最後の幸せがふんだんに詰め込まれていた。いつもは色んな種類の魚を食べるように指導する母の姿はそこにはない。買い物かごには娘が大好きなサーモンがいっぱいに詰められている。しかし、この母親を、割り込みをするこの家族を悪くいうことができるだろうか。こんな状況だったら僕だって割り込みをするだろう。もし、私の記憶が戻ればの話だが。
そんな家族を眺めながらじっと待つ。私の最後の晩餐はチーズちくわである。
悲しい話だとおもいませんか。

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