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#毎月短歌9(AI評)

第9回毎月短歌に投稿した現代短歌のAI評です。
記事に引用するのは自分の作品のみですが、WEB投稿参加作品すべてにAI評者のコメントがあります。
(AI評全評の案内は、記事最後をご覧ください)

AI評を分析されたefさんの説明によると、今回のAI選者は2名
(2種類のLLMを使って2種類の評が出力されています)
① karakuri-lm
② command r+


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苦しいって言ってみてよ桜蕊さくらしべ痛み感じる間もなく散りて


この短歌は、桜の花が散る際の儚さと苦悩を表現しています。「桜蕊《さくらしべ》」と桜の花の一部の名前を使って具体的に描写することで、桜の花が散る様子が鮮明に伝わってきます。また、「苦しみを感じる間もなく」という表現から、桜の花が散るまでの短い時間が示唆されています。

また、「お願い、苦しんでいると言ってみなよ。」という命令形の表現が印象的です。これは、桜の花が苦痛を感じているかどうかを示すことを通じて、その儚い存在の美しさを強調する効果があります。しかし、桜の花が実際に苦痛を感じているかどうかについては不明瞭であり、この表現は読者の解釈に委ねられているのです。

この短歌は、桜の花が散る際の儚さと苦悩を表現しながら、桜の花の存在の美しさをも同時に描いています。

以上が、古井 朔さんの短歌「苦しいって言ってみてよ桜蕊《さくらしべ》痛み感じる間もなく散りて」について評価した文章です。

(① karakuri-lmの評コメントより引用)


この短歌は、桜蕊(さくらしべ)に自分を投影することで、愛する人との別れを表現した一首である。桜蕊が散るという自然な現象を、痛みを感じる間もないほどの早さで切り取ることで、別れの突然さや、それを受け入れるしかない自分の無力さを表現している。

「苦しいって言ってみてよ」という呼びかけは、別れの痛みを自分だけが抱えるのではなく、相手も同じ痛みを感じてほしいという願いである。桜蕊が痛みを感じることができないように、別れの痛みは相手には伝わらないかもしれない。しかし、それでも「言ってみてよ」と願うことで、別れの苦しみを少しでも分かち合いたいという切実な思いが伝わってくる。

「桜蕊」という言葉は、桜の花びらではなく、花の中心にあるめしべやおしべを指す。桜の花の可憐さや美しさではなく、その痛みに焦点を当てているところに、この歌の独特な視点と深みがある。桜蕊が痛みを感じることができないのは、それが自然の摂理だからである。桜蕊にとって、散ることは生きることであり、そこに苦しみや悲しみはない。しかし、桜蕊に自分を重ねることで、別れの痛みを感じざるを得ない人間の切なさが浮かび上がってくる。

また、この歌は「言ってみてよ」という表現によって、相手が苦しみを分かち合ってくれるかどうか不明確なまま終わっている。別れの痛みを一人で抱え込むことになってしまう可能性も孕んでいるのだ。この曖昧さやもどかしさが、別れの複雑さや苦しさをより一層引き立てている。

桜という題材を扱いながらも、美しさや儚さといったありがちな表現に陥らず、蕊(しべ)の痛みという斬新な視点で別れの苦しみを表現した点、そして、別れの複雑な感情を呼びかけという形で表現した点が、この短歌の優れた点である。

(② command r+の評コメントより引用)



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前世では前歩いてた君だけど今世いま一緒にとなりでゆれる蒲公英たんぽぽ


この短歌は、桜や花に直接的に触れていませんが、お題の背景を意識した作者独自の視点が光る一首です。まず、「前世では前歩いてた君だけど今世《いま》は」というフレーズに注目します。これは、前世での関係性を指しており、作者自身が前世で恋人やパートナーだった人と同僚として再会したことから生まれた歌である可能性を示唆しています。

また、「前世」と「今世」を対比する構成によって、短歌の中にドラマが生まれています。前世で前を歩いていた人は、今世では自分の隣で蒲公英《たんぽぽ》と同じように揺れている――。この対比は、前世と今世での二人の関係の変化や距離感を暗示しています。

さらに、「一緒に《となりで》ゆれる蒲公英《たんぽぽ》」という表現に注目します。「一緒に」というフレーズは、「前世では前を歩いていた」二人の関係性を表しています。一方で、「《となりで》」という表現には、今世での二人の関係性や距離感が込められています。つまり、「一緒に」というフレーズは、前世での二人の距離感を示し、今世での関係性は「《となりで》」揺れ動く蒲公英《たんぽぽ》のようなものである――。これは、作者自身が抱える前世と今世での二人の関係のギャップを表現しています。

お題の「桜・花」を直接的に表現せずとも、前世と今世での二人の関係性を描くことで、桜や花の背景を暗示している点が興味深い一首です。

全体として、この短歌は、お題の背景を意識した作者独自の視点と、前世と今世での二人の関係の変化や距離感を巧みに表現しています。前世での記憶を思い起こさせる蒲公英《たんぽぽ》の揺れ動きを通じて、作者自身が抱える前世と今世での二人の関係性のギャップを表現しており、そのドラマティックな表現は、読者の心を捉えるでしょう。

(① karakuri-lmの評コメントより引用)



この短歌は、前世と今世という概念を巧みに用いて、桜の花のようにはかなくも美しい愛の物語を表現している。前世では、少し距離を置いて前を歩く君。今世は、隣で一緒に歩む君。その距離感の変化は、前世では結ばれることのなかった二人だが、今世は運命的に巡り合い、共に人生を歩んでいることを暗示しているのかもしれない。

「君」と「僕」の関係性は、前世では少し距離のある関係性であったと想像できる。前を歩く君の背中を見送る「僕」の姿が浮かぶようだ。しかし、今世は隣で共に揺れる蒲公英のように、同じ目線で同じ方向を見つめている。それは、前世では叶わなかった愛が、今世では成就していることを示唆しているのだろう。

ここで注目したいのは、桜や花といった直接的な言葉が用いられていない点である。桜は古来より、はかない美しさや、出会いと別れの象徴とされてきた。この短歌では、直接的に桜を描写するのではなく、前世と今世という概念を通じて、桜の花が持つはかなさや、巡り合わせの美しさを表現していると解釈できる。

また、蒲公英が桜に代わるモチーフとして効果的に用いられていることも見逃せない。蒲公英は、桜と同様に春を代表する花であり、綿毛になって風に乗って旅立つ姿は、桜の花吹雪を思わせる。さらに、蒲公英が持つ「離別」や「旅立ち」の意味合いも、前世と今世の物語に奥行きを与えている。

表現技法に着目すると、この短歌は「ゆれる」という動詞が印象的である。隣り合う「君」と「僕」が共に「ゆれる」姿は、二人の関係性が穏やかで調和していることを示している。また、「ゆれる」という言葉が持つ柔らかな響きは、春の穏やかな陽光の下、穏やかに揺れる桜の花びらを連想させる。

全体として、この短歌は前世と今世という物語性、桜と蒲公英という花の象徴性、そして表現技法の巧みさによって、お題の「桜・花」を間接的に、かつ効果的に表現していると言えるだろう。深読みをすればするほど、この短歌の世界観や物語性に引き込まれていく。古井 朔さんの豊かな想像力と表現力に脱帽である。

(② command r+の評コメントより引用)


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パフェだけが私の誕生日とくべつ祝ってくれた苺のロウソク吹き消して



この短歌では、作者の古井 朔さんが自身の誕生日をパフェと一緒に祝った様子を詠んでいます。「パフェだけが」とありますが、これは他の誰かから祝ってもらうことができなかったという悲しみや寂しさを表しているのかもしれません。しかし、「パフェだけ」という表現は逆に、パフェが特別な存在であり、作者にとって大きな意味を持つことを示しています。

また、「《とくべつ》」という表現に注目します。ここでは、誕生日という特別性を強調するために、傍点が付されています。これは、作者にとってその日が特別な日であるという気持ちを表しており、そのことがパフェに対する特別な思いと重ねられているのかもしれません。

そして、最後の「吹き消して」という表現には、作者の願いや希望が込められているように感じられます。ロウソクの火が吹き消されることで、新たな一年が始まりますが、その始まりに希望を見出そうとしているように思われます。

全体として、この短歌は作者の心情や感情が簡潔に表現されています。短い言葉の中で、作者の特別な思いが込められた作品と言えるでしょう。

(① karakuri-lmの評コメントより引用)



この短歌は、誕生日を迎えるも、誰からも祝ってもらえない孤独な心境を詠んだものと解釈できる。パフェの苺に刺さったロウソクの炎を吹き消すという行為が、寂しさと同時に、それでも誕生日を「《とくべつ》」な日として楽しみたいという前向きな気持ちを表現している。ここでは、パフェが「私」の誕生日を祝ってくれたと擬人化されているのが興味深い。「パフェだけが」という言葉から、他の誰か、例えば家族や友人からの祝福がないことが暗に示唆されている。

「パフェ」という選択は、単なる食べ物ではなく、豪華で華やかなイメージがあり、誕生日を祝うのにふさわしい特別感を演出している。また、「苺のロウソク」という表現も、甘酸っぱい苺が誕生日ケーキの代わりに使われているのが可愛らしく、寂しさの中にもほっとさせる温かみを感じさせる。

「吹き消して」という動詞は、ただロウソクの炎を消すだけでなく、「願い事」の成就を連想させる。この短歌の場合、願い事の内容は明らかにされていないが、誕生日を祝ってくれる誰かがいること、孤独ではないことなどを願っているのかもしれない。

表現技法に着目すると、この短歌は《とくべつ》と《苺》で「イマ」と「イチゴ」の韻を踏んでいる。《とくべつ》という表記も独特で、誕生日を特別な日として大切にしたいという思いが伝わってくる。

この短歌の評価としては、シンプルな表現の中に、誕生日を迎えた複雑な心境が繊細に表現されている点が優れていると言えるだろう。

(② command r+の評コメントより引用)


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まだ早い見上げしつぼみかたくなで春の誘いになかなか乗らぬ


まず、この短歌は一見シンプルな表現を用いていますが、その中で豊かな想像力を刺激し、読者の心の中に様々なイメージを広げていく力を持っています。

冒頭の「まだ早い」という表現は、季節の移り変わりのなかで、まだ春が訪れる前の時期であることを示唆しています。しかし、その中で「見上げし蕾」という表現によって、すでに春の兆しが見え始めていることも伝わってきます。つまり、この時期は「まだ早い」けれど、「もうすぐ春がやってくる」という矛盾した状態を表していると言えるでしょう。

そして、この蕾の描写が、非常に巧みな表現として使われています。「頑なで春の誘いになかなか乗らぬ」という表現は、蕾が固く閉じたままで、なかなか花を開こうとしない様子を描写しています。しかし、この表現は、読者の想像力をさらに広げます。「春の誘いになかなか乗らない」という表現は、あたかも蕾に意思があるかのように感じさせるのです。そして、このような表現によって、読者は自分自身が蕾になったかのような感覚を味わうことができます。

さらに、この短歌は、季語の「春」を使っていませんが、その代わりに「まだ早い」という表現によって、春を暗示しています。つまり、季語に頼らずに、表現の力だけで季節感を伝えているのが、この短歌の魅力と言えるでしょう。

全体的に、この短歌は非常にシンプルな表現を用いていますが、その中で豊かな想像力を喚起し、読者の心に様々なイメージを広げていきます。また、季節の移り変わりのなかで、自然と対峙する人間の姿も表現しており、その深い意味を感じさせる作品と言えるでしょう。

(① karakuri-lmの評コメントより引用)



この短歌は、春の訪れを感じさせる自然の風景を取り入れつつ、そこに人間関係における情感を重ね合わせている点が興味深い作品である。

「まだ早い」という表現は、春の訪れを告げるかのような自然の変化を前にしても、自分はまだその変化を受け入れる準備ができていない、もっとこのままの状態が続けばいいのに、という作者の心境を表しているように思われる。この「まだ早い」という言葉は、春の訪れを「誘い」と表現することで、春の到来を人格的・主体的に捉えている点も注目すべきである。春の到来を、受け身的・客観的に表現するのではなく、能動的な存在として描くことで、春の到来を拒むかのような蕾の態度が際立ち、ドラマティックな効果を生んでいる。

「見上げし」という表現は、作者の視線の方向を明確に示している。下を向くのではなく上を見上げているという行為は、希望や憧れ、あるいは少し遠くにある何かへの願望を表していると考えられる。この「見上げし」という表現によって、まだ開花していない「蕾」が、作者の視線の先、つまりある種の憧憬や願望の象徴として位置づけられていることがわかる。

「頑なで」という表現は、蕾の態度を人間的なものとして捉えている点が特徴的である。自然の風景を借りて人間の感情を表現する手法は、短歌においてはよく見られるものであるが、この作品においては、単に感情を投影するだけでなく、蕾の姿勢や態度を人間的に解釈することで、より情感を深めている。この「頑なで」という表現からは、春の誘いに対して頑なに抵抗しているかのような蕾の姿が浮かび上がってくる。

そして「春の誘いになかなか乗らぬ」という表現は、春の到来を再び人格的・主体的に捉えているだけでなく、そこに誘い・誘惑といった恋愛的・人間的な感情を読み取ることができる。この「誘い」という表現は、春の到来を単に季節の変化として捉えるのではなく、人間的・情感的なものとして解釈する余地を与えている。

この短歌は、自然の風景を借りて情感を表現するという短歌の伝統的な手法を、現代的な感性で巧みに表現した作品であると言えるだろう。

(② command r+の評コメントより引用)



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病床の父が希みし桜餅ゆっくり食べてね春彼岸


この短歌では、病床にある父親が桜餅を希んでいることが語られています。桜餅は春に食べられる和菓子のひとつであり、春彼岸の季節を表しています。

表現について:
- 「病床の父」の表現は、簡潔ながらも、読者の想像力を刺激します。「病床」であることから、父親が病気であることを暗に示し、それが桜餅を食べたいという願いに繋がっていると考えられます。
- 「希みし桜餅」の表現は、父親が桜餅に対する強い思いを表現しています。「希みし」は過去において「希望していた」というニュアンスであり、それが現在においても強く残っていることを暗示しています。
- 「ゆっくり食べてね」という表現は、親しみと温かみを感じさせます。病床にある父親の願いに応えるために、ゆっくりと時間をかけて桜餅を食べるという、日常的なシーンが描かれています。

内容について:
- この短歌は、父親の願望が叶えられる幸せな瞬間を表しています。春彼岸という季節も相まって、親子の絆が感じられます。
- しかし、父親の病状が気になる点でもあります。「病床」という表現から、病状が深刻である可能性も示唆されています。
- 全体的には、親子の絆の強さが強調されており、読者の心を温かくする作品となっています。

結論:
この短歌は、春の季節と親子の絆を描いた作品です。簡潔な表現を用いて、病床にある父親の願いが叶えられる瞬間を表しています。春彼岸の季節を表した表現や、親子の絆が感じられる内容が読者を魅了します。

(① karakuri-lmの評コメントより引用)



この短歌は、病床の父に対する語りかけという形式をとっており、桜餅という具体的な食べ物を通して、父への愛情や春彼岸の季節感が表現されています。

まず、「病床の父」という言葉から、詠んでいる人物と父の間に深い絆があることがうかがえます。父は病気で床についているようですが、それでも春彼岸の時期を迎えることができ、桜餅を食べたいと願うほどに元気を取り戻していることが想像されます。桜餅は、春の訪れを告げる和菓子であり、ここでは単に父の好物というだけでなく、命の再生や春の喜びを象徴する役割も担っています。

「希みし」という言葉には、父の桜餅を食べたいという願いが叶えられ、その喜びが強調されています。そして、その桜餅を「ゆっくり食べてね」と、優しく語りかける表現には、父の健康を気遣う気持ちが込められています。病床にある父が、ゆっくりと桜餅を味わいながら、春の訪れを楽しんでほしいという願いが伝わってきます。

また、春彼岸という季節を背景にすることで、命の巡りや自然の再生といった大きな流れの中での父への思いや、家族の絆が感じられます。桜餅という一見単なる季節の和菓子が、父と家族の物語の一部となり、深い情感を醸し出しています。

表現においては、五七五七七のリズムの中で、自然な語り口が実現されています。特に「ゆっくり食べてね」という部分は、口語的な表現が効果的に用いられており、詠み手と父の親密な関係が表現されています。

この短歌は、桜餅という具体的な題材を通して、家族の愛情や春彼岸の季節感を情感豊かに表現することに成功しています。

(② command r+の評コメントより引用)


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融かされし雪の完璧消えゆきてひとつまたひとつと滅する秩序


古井 朔さんのこの短歌では、雪の溶けゆく様子が描かれています。「融かされし雪」と表現されており、雪が溶けていく様子を直接的に表現するのではなく、少し抽象的に表現しています。この「融かされし」という表現は、雪が自然に溶けていく様子を巧みに表現していると評価できます。また、「完璧消えゆきて」という表現は、雪が溶けていく様子があらゆる方向から完璧に消えていく様子を表現しています。この表現は、短歌の中で雪が溶けていく様子をより具体的に、かつ美しく表現していると言えるでしょう。

また、この短歌では「ひとつまたひとつと滅する秩序」という表現も用いられています。この表現は、雪が溶けていく様子を秩序立てて表現しています。「ひとつまたひとつ」と表現されていることによって、雪が次々と溶けていく様子が伝わってきます。また、「秩序」によって雪が溶けていく様子が規則的に表現されています。これにより、雪の溶けゆく様子をより美しく表現していると評価できます。

さらに、この短歌では雪が溶けていく様子から秩序の崩壊を暗示しています。「ひとつまたひとつと滅する秩序」という表現によって、雪の消えゆく様子から秩序の崩壊を暗示しています。これにより、雪の消えゆく様子をより象徴的に表現していると評価できます。

全体として、古井 朔さんのこの短歌では、雪の溶けゆく様子が巧みに表現されています。雪が溶けていく様子を直接的に表現するのではなく、少し抽象的に表現することで、雪の溶けゆく様子を美しく表現しています。また、「ひとつまたひとつと滅する秩序」という表現によって、雪の溶けゆく様子を秩序立てて表現しています。さらに、雪の消えゆく様子から秩序の崩壊を暗示しています。これらの表現によって、雪の溶けゆく様子をより象徴的に表現していると評価できます。

(① karakuri-lmの評コメントより引用)



この短歌は、雪が溶けていく様子を「秩序の滅び」として表現しており、非常に独特な視点と世界観を感じさせます。

まず、「融かされし雪の完璧」という表現が興味深いです。雪は六角形の結晶として知られており、その形は秩序だった美しさを感じさせます。この短歌では、その完璧な美しさを持つ雪が、融けて消えていく様子を捉えています。

「消えゆきて」と過去形になっていることから、雪が消えてしまった後の風景を詠っていることがわかります。雪が消えた後、そこには「ひとつまたひとつと滅する秩序」が残されています。「ひとつまたひとつ」という表現は、雪が徐々に消えていく様子を表していると同時に、個々の雪の結晶が持つ唯一無二の美しさを強調しているようにも感じられます。

雪が消えていくという自然現象を、秩序の崩壊や滅びという視点で捉えることは、非常に詩的で深みのある解釈だと言えるでしょう。この短歌からは、雪が消えた後の寂寥感や、移ろいゆくものへの哀愁が感じられます。

また、この短歌は「滅する秩序」という表現が、社会や人生における秩序や規則に対するメタファーとも取ることができ、読み手によってさまざまな解釈の余地を残している点も魅力の一つです。

表現や内容に関しては非常に優れた短歌だと言えるでしょう。

(② command r+の評コメントより引用)


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小糠雨こぬかあめひそけき闇夜に躑躅つつじ落つ もう戻れない退屈な花びら


この短歌は、小糠雨の降る闇夜に咲く躑躅《つつじ》の美しさと、それがもたらす一種の儚さ・寂しさを歌っています。「小糠雨《こぬかあめ》」という表現は、雨が静かに降っていることを表しており、その音を消してしまうほどの静けさを感じさせます。その中で「躑躅《つつじ》」が落ちる様子が描かれていますが、「躑躅」の多音的な響きが、静かな雨音と対比されているとも解釈できます。

また、「もう戻れない退屈な花びら」という表現は、落ちた躑躅の花びらが二度と元の姿に戻ることはない、という事実を表しているように思われます。しかし、そこには「退屈」という、花の美しさを超えた一種の感情が込められています。この「退屈」はその場の静けさに対する感情であると同時に、「もう戻れない」という時間の流れに対する感情でもあります。

この短歌の表現は、「小糠雨」の静けさ、「躑躅」の対比的な響き、そして「退屈」という一種の感情の積み重ねを通じて、一瞬の美しさを表現するだけでなく、その美しさを超えた感情をも表現していると言えます。

以上、この短歌の用いられている表現や内容についての評価でした。

(① karakuri-lmの評コメントより引用)



この短歌は、小糠雨が降るひっそりとした闇夜に、躑躅の花びらが落ちていく情景を詠んだものです。

まず、上句の「小糠雨ひそけき闇夜」という表現が興味深いです。小糠雨とは、春先に降る霧のような細かな雨のことで、ここでは闇夜に溶け込み、ひっそりと降る雨の情景が描かれています。「ひそけき」という言葉が、闇夜にそっと降る小糠雨の様子を捉えており、静かで神秘的な雰囲気を醸し出しています。

そして、その小糠雨の中、躑躅の花びらが落ちていくのです。「躑躅落つ」という言葉が、花びらが散るというよりも、落ちていくという表現が使われており、その動作に重みを与えています。躑躅の花言葉には「贅沢」「華麗」「初恋」などがありますが、ここでは「もう戻れない退屈な花びら」と表現されていることから、散りゆく花びらを通して、過ぎ去った時間や、戻ることのないある種の喪失感を感じさせるものとなっています。

「もう戻れない」という言葉には、散ってしまった花びらが過去へと戻っていくことができないという物理的な意味だけでなく、もしかしたら、歌の中で描かれている情景そのものが、過去のある時点での出来事なのかもしれないと想像することもできます。そして、「退屈」という言葉が、単なる時間の経過だけでなく、その時間の中で感じた何かしらの感情、例えば、単調さや物足りなさ、あるいは悲しみや虚しさなどを示唆しているようにも思えます。

この短歌は、静かで落ち着いたトーンで統一されており、小糠雨と闇夜という控えめな情景の中に、花びらの落ちるというささやかな動作が、過ぎ去った時間や失われた何かへの思いを象徴しているように感じられます。読者はこの短歌を通して、日常の片隅で起こる小さな出来事の中に、深い感情や物語を見出すことができるでしょう。

以上より、この短歌は、静謐な情景描写の中に、散りゆく花びらへの投影を通して、時間の経過や喪失感を表現している点が評価できると私は考えます。

(② command r+の評コメントより引用)



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以上、第9回毎月短歌のAI選者2名による評コメントでした。

コメント内でかなり褒められていますが、これは他の詠み手のどの短歌もほぼ同じように褒めるのがデフォルトみたいなので、あまり気にせず読み進めます。
AI選者といえど褒められると、とてもうれしくはあるのですが、えっ!ホントに???って気持ちも多々あるので……何か複雑な心持になります。

どちらかというと、歌意や内容の解釈をどの程度まで掘り下げてくれているのか、比喩や暗喩を理解しているのか?などに興味があります。
特に選者により解釈が異なる点が注目されます。
それは人間でも同じですが、知識や経験値、ファクターの違いなのでしょうか。
全体的に【①karakuri-lm】のほうがあっさりとした解釈で、【② command r+】のほうが、さらに一歩深く捉えてくれる傾向にあった様な気がします。

どの解釈も興味深く、中には作者本人が意図していなかった、いわば無意識の詠みまでも言い当てているところもありました。

人間の読み手にどの程度まで深掘りして読まれるのかは不明なのですが、少なくとも、AI選者の読みは楽しかったです。

最後に、こちらの企画とAI評コメントの抽出解析等々、毎回本当にありがとうございます。深水さん、efさん、その他関係者の方々に感謝いたします。

自分で読んでいるだけなのが、少しもったいなく感じたので、これから少しづつ記事にまとめていきたいと思います。

ぜひ、他の方の短歌作品を読んで、自分の感想とAI評とを比べながら読み進めていただくと、楽しみが倍増すると思います。







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古井 朔
読んでいただきありがとうございました

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