破れてくれた要れもの
その日は一日中浮かれていた。
クタクタの紙袋に、買い物した2ℓの水やら野菜やら洗濯するために持ち帰った布巾、そして小さなバッグに詰め込むのが面倒でスマホやキーケースもぶち込み、急ぎ足で帰宅する途中だった。
それらの重さに耐えられなくなった紙袋は見事に底が破れ、中身をぶちまけてしまった。
幸いなことに、前回のように昼間の大通りではなく夜中の小さな道端だったため、恥ずかしさからは免れた。
しかし入れ物を破壊してしまったからには素手で抱えて運ぶしかない。何とかうまく抱えながら歩き出すと、斜め後ろから人が近づいてくる気配がした。いつものようにイヤホンで耳を塞いでいた私は、少し気まずさを感じながらやや早歩きで帰路を急いだ。
しかしやたら近づいてくるなと思ったら、「これ、使ってください」と、破れてしまった紙袋よりもはるかに分厚く頑丈そうな紙袋を渡してくれた。
若いイケメンの男性だった。
私はイヤホンを外す間も無く去っていく男性に「ありがとうございます助かります!」と早口で言葉だけ追いかけた。
本当に助かった。2ℓの水も余裕で受け入れてくれた。再び幸せな気分を取り戻し、帰路についた。
その日は、昼から20年以上ぶりに中学時代の友人と集まり、京都っぽい町家でおばんざいランチから我々の出身地岐阜で店舗を出していたジェラート屋でデザート、そして私の店を見学がてら持参してくれたワインを開けて、おなかが空いてきたらUber Eatsで中華を頼んで、とにかくずっと食べて飲んで喋った幸せな1日だった。
みんなそれぞれ楽しく幸せな日々を送っており、見た目は若々しく衰えも全く感じなかった(元々美意識が高い子たちの集まりだったのもある)し、それぞれ様々な経験を経て、達観した落ち着きを感じた。3人の娘を子育て中の彼女は女神のようなゆとりと美しさが滲み出ていたし、優しい恋人に大事にされている彼は、とても幸せそうだった。
彼女や彼の発する言葉は身に沁み、私も違う形ではあれど幸せになろう、と前向きに思わせてくれるものだった。
本当は嫌なこと、受け入れ難いこと、きっと全て抱え込んでしまっている。
これは我慢じゃない、修行だ、とか、嫌だと思っては通じ合わない、合わせるべきなのだ、とか、受け入れられない自分に余裕がないのだ、と自分に言い聞かせてきた。
しかし身体が悲鳴を上げてくれたおかげで立ち止まる。
なぜ他人のご機嫌を損ねないためにこちらが常に耐えなければならないのだろうか。嫌なことを嫌と言えない人権もないのだろうか。
ふと冷静になると明らかに理不尽な環境に身を置き、麻痺していたことに気付かされる。
破れてしまったクタクタの紙袋は私だ。
許容範囲を超えて詰め込み過ぎていた。
要らないものは捨てよう。
その分、本当に必要なものが飛び込んできてくれる。
そのことを教えてくれた全ての人と事象に感謝している。