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【コラム】誰でもが安心して楽しめる番組

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ある番組を観て笑っている人がいます。

(笑い声)

同じ番組を観て泣いている人がいます。

(泣き声)

誰でもが安心して楽しめる番組を私達〇〇は~~

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 細部まで正確には表現できていないが、ラジオから良く流れてくる番組倫理なんちゃらのCMの概要が上記のものなのだが、私としてはどうも違和感を覚えるのだ。

 同じ作品を鑑賞して、笑う人がいて、泣く人がいる。
 これってよろしくないことなの?

 何かを提示して、それについて個々が面白がったり悲しんだり怒ったり呆れたりするのは当たり前のことであって、それを提示する側が気にしぃしぃ制作したとすればもう、鑑賞者側の感受性や経験値による心の揺れ(私はこれを総称して「感動」と呼ぶのだと理解しているのだけど)を、制作者がコントロールしようとしているようなもので、それは表現者としてあまりにも日和見的過ぎる行動であると同時に極めて傲慢な考えであるとも思うし、たとえそれを鑑賞した人の中に激怒する人がいたとしても、それはその人の感じ方ということで、そう感じてもらえたことをむしろ喜ぶべきなのではないだろうか?と思うのだ。

 ものっそ極端な場合を言うと例えば、私の作品を読んだ人が、生まれてこの方感じたことがないほどの怒りに駆られて、私宛に便箋150枚にわたってその怒りの程を書き記した手紙を1年間、毎日毎日送りつけてきたとする。この文章の中に「殺す」だのなんだのという文言があるとこれは脅迫とかそういう話になってしまうし、手紙だけではなくて本人が実際に自宅まで押しかけてきて私を殴るということになるとこれは暴行暴力ということで警察沙汰になるわけで、話をここまで拡げるとわかり難くなってくるので一旦、そういう行為はなく単に手紙を連続で寄越したと、こういう事態を迎えたときに、作家たる私はこの意見を真摯に受け止めねばならぬので、この大量のファンレター(反感を持たれているだけでこの人は紛れもない読者である)を必ず読まなければならない。そしてそういうふうにして私の作品に対して激怒するほどこの人は私の作品を読み込んでくれているという理解をして、喜ぶべきなのである。場合によっては、返事(反論ではなく)を書いて、礼を述べるべきなのかもしれない、しかしだ。
 このように憤激に駆られる人がいるからと言って自分の作品を取り下げたり修正したり謝罪文を発信したりということは断じてすべきではないと私は思うのだ。また、このような物語を書くことによって、人の怒りを買う事があると言うことを学習したからと言って、それにビビって以降、その手の作品を書かなくなるということも断じてすべきではないとも思うのだ。というのは、作家は表現者はどこまでも自由闊達に際限なくタブー無く自分の発想することをひたすら表現すべきなのだと、私自身が思っているからである。

 「誰でもが安心して楽しめる」という言葉がどの程度の心の揺れを許容するのかわからないが、発信する側がそんなことまで気にして自分の表現に制約をかけてしまえば、人の心の揺れを最小限にするために、インパンクトの小さい平坦な表現ばかりを選択して使うようになってしまって、それが映像だろうが文章だろうが音声だろうがなんだろうが、全然おもしろくないんじゃないかと思うし、私個人のことを言えばそんな番組は観たくない(笑)

 人の心を激しく揺さぶり、時には不快にさせ恐怖させることがあったとしても勇気を持って打ち出された作品が、長く力強く深く、人の心に残るのではないかなぁと思う。

 誰かにとっては快楽、誰かにとっては苦痛。これってどんなことにも当てはまることじゃない?
 例えば動物を飼うこと、例えば職場に子供を連れて行くこと、例えば電車内で子供が泣くこと、例えばスーパーの支払いで老人がモタモタすること、例えばスプラッター映画、例えばエロ小説、例えば幼児虐待をテーマにした映画、例えば災害をテーマにした映画、例えば麻薬をテーマにした映画、例えば近親相姦をテーマにした小説、例えば性差別をテーマにしたドラマ、はじめから終わりまで徹底した暴力と裏切りと憎悪に満ち溢れた散文…etc。

 私は全部アリだと思うけどな。

 作る側は一切の遠慮を捨て去らなければならないと思うし、それによって攻撃される覚悟を持たなければならないし、それでも闘うように作品を作り続けなければならないと思うんだけどな。

 それが唯一、表現者の使命だと言い切っても良いと思っている。

 聴衆観衆観客読者視聴者等々に阿る表現者なんて、カッコ悪いしつまらないでしょう。

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