【短編小説】便所の柱
【1】
豆腐の角に頭ぶつけてくたばっちまいな!
これはいい。
豆腐なんて柔らかくてあなた、そんなものになんぼ勢いよく頭をぶつけたところで、いや頭に限らず全身をぶつけたところで打撲にすらならないどころか場合によってはふわふわで気持ちがよろしいのかもしれないとすら思えてね。
「だからそんなあり得ないような死に様をさらして死んじまえっていってんだよ、このとんま!」
すっとぼけているとそんなふうに、ちょっとおかしげな空気を湛えつつもそれなりに的を射た罵倒のコトバ、あまりにも正論過ぎるので全く面白みの無いコトバを畳み掛けられ心のなかでは「そんなことわかってますよ、あなたに言われなくたって」と思いながらニヤニヤしてその場を凌ぐそれが激怒している相手の気持ちを落ち着かせる最良の態度である。はずが逆にニヤニヤが気に入らなくて更に怒りが高じてしまう心の狭い輩が最近は大変に増えていて世間は生きにくくなったものだ。
ところで。
便所の柱に頭ぶつけてくたばる。
まぁ便所に限らず柱に頭をぶつければ実際に死ぬのかもしれん。
堅いからね。
したがって「「豆腐の角」はありえないから単なる罵倒とかシャレですむのだけど、「便所の柱」はシャレにならないということを私は、声を嗄らして絶叫するが如く訴えたい。
笑うな。シャレじゃねぇぞ。
【2】
ひと晩中、部下であるはずのブラジル人に、まるでこき使われるようにしてムカつきながら労働し、うなだれて自宅玄関を開いたはいいが、妻は朝からパートに出てしまって家におらず、つまらないのでタクアンでもかじりつつバーボンでもあびたろか?でもその前に脱糞したいと、便所に向かうと扉が開いている。
「まったく、いかに寝坊してパートに遅刻するタイミングであったとしても、便所の扉くらい閉めてから出かけなさいよ」
と、田舎芝居の棒読み台詞的な独り言を吐きつつ、でも扉を開ける手間が省けて良かったかもしれないなんて思いつつ、苦しい微笑を浮かべつつ、狭苦しい便所に足を踏み入れようとした途端に飛び込んでくる光景が床に落ちている糞である。
「まったく、いかに寝坊してパートに遅刻するタイミングであったとしても、糞は便器の中にしなさいよ」
なんて、田舎芝居の棒読み台詞的冷静さで言えるわけもない。
おい、想像してみよ。
便所の床ですよ。床に糞をたれる。
これは豆腐で死ぬと同等にあり得ない光景ではなかろうか?と思う。
そんなあり得ない光景が確かに眼前に拡がっている。猛烈な悪臭と共に。
脇でごそごそした気配があるので、目に涙を浮かべながら振り向くとそこには黒い毛の塊がある。
この野郎。
当家の飼い犬である。
この野郎。
「拾ってきて10年、てめぇのような駄犬をここまで立派に育ててやった恩を徒で返しやがって、この野郎」
「尾を振り、まるで人間の如く目を細めて私を見るな。」
「ふんふんと鼻を鳴らすのをやめろ」
「朝の清廉な便所で主人より先に用を足すなんてのは、おまえの立場からすれば言語道断な行為である」
「私は当家の中で本日一番目に糞がしたかったんだ。私のささやかな楽しみを踏みにじりやがって、毛だらけの足で。」
そんな呪詛を撒き散らしながら、私がいかに鬼の形相で睨み付けようと、駄犬は一切気にかける様子もなく目を細め、尾を振りながら自らの寝床に戻っていってしまった。
私はこのようにして無視され、そしてその場にしばし立ちつくしていた。
【3】
立ち尽くしたままでいても何ら解決には至らないし、私はいつまで経っても排便できない。
まずは便所紙をロールからくるくると50センチほど引っぱり出して、キレイに4分割で折り畳み、糞犬の糞の上、丁寧にそれを被せる。その際、ブツに近づけた手にそれほど温もりを感じないことから、それなりに時間が経過していると推測できた。そして更に50センチほど便所紙を引きずり出してまたキレイに四つ折りにし、先ほどの紙と垂直に交差するようにすなわち、床の糞を中心において「☓」を描くが如く、とにかく一旦隠蔽してみたわけである。
床の白き「☓」をじっと観察する。
別に状況が大きく好転したわけでもないが、やや気持ちが落ち着いたので、深呼吸をひとつしてみたところ、鼻腔に飛び込んできた空気の淀み、タクアン臭さに涙を流しながら私は恥辱にまみれ、窓を開け放った。
そこから覗く野外の風景と、取り込まれる新鮮な空気に私は涙を拭い、強く生きることを決意したのだが、次の瞬間、さらに絶望の断崖から突き落とされたような気分になり一時、自殺しようかという想いが頭を過ぎったのである。
中年男が自死を決意するほどの出来事とは何か?
家の前を飼い主と思われる初老の男にに引かれて、真っ黒い巨大な犬が散歩していたのだが、私の眼前で、ツ、と立ち止まり、しゃがんで脱糞したのである。飼い主は手にティッシュを持ちながら、少々あたりをキョロキョロしていた。不審であった。よもや、と私が目を凝らすその前で黒犬は何事もなかったかのように立ち上がり、飼い主もまた何事もなかったかのように綱を引き、そのまま立ち去ろうとしている。湯気の立つ黒く膨大な分量の糞をその場に残したまま。
要するに私は前後、犬の糞によって挟み討ちにあったも同然の境遇に陥ったのだ。
「ど・ど・ど・ど・どっらあぁーーーーー!」
私がヘンリー・ロリンズの如く腰から上を前方に折り曲げてヘナヘナの腹筋を最大限に酷使しながらその場で咆吼すると、黒犬はその声に気付いたのか、ちょっと振り向いた。そして口の端でにやりと笑いやがったのである。
もちろんヤツは歩みを止めない。不人情な獣。自らの糞によって人様を自殺に追い込もうとしているという反省が欠如している。言語同断な悪党めが。成敗せねばならぬ。
そして私は汚辱パワーに突き動かされ、黒犬を追撃するべく華麗に身を反転し便所の扉を抜けようとして今、まさに絶命しようとしている。
それというのも、この汚辱パワーは思いの外に凄まじく、その時点での私の身の反転速度というのはちょっと数値に表せないほどの高速で、この勢いならあの黒犬&初老男子コンビに数秒で追いつくであろうと予測でき、また私自身、この年齢でこの動きができると言うことに若干のヨロコビを感じたりしたほどに俊敏であったことが災いしている。
私の人生最後の溌剌とした動きが徒をなしたとでも言うべきか、あまりに速度が速すぎて肉体を制御できなかった私は、足首を軸として反転しようとした刹那、頭部の重さに比例して大きくなる遠心力を計算する暇を持てず結果、思ったよりも大きく頭を振るような体勢のままバランスを崩し、扉を支えている便所の柱に左側頭部を強打、メリッというイヤな音が内側から鼓膜を震わせているのを感じつつ後ろによろめいた。
そして私はそのまま仰向けで宙を舞った。
よろめいた足元には例の小憎らしい純白の「☓」があり、私はそれを踏みつけたために「☓」の内部にある犬の糞に足を掬われてひっくり返ったのだ。
やや時間の経過した糞は、表面こそ水分蒸発により堅くなっていたもののまだまだ中身はレアであり、私が踏みつけたことによって皮が破けて餡が飛び出した結果、それは「×」を描いた便所紙を通して足裏に付着、ただでさえ側頭部の強打によっておかしくなっている脳はそんな急場には対応不可で為す術もなかった、と言うのがその事情である。
自分の足先を見ながら私は落下していく。
このままでは潰れた糞の上に尻餅をついてしまうと、わかっていながら落下していく敗北感。しかし、尻餅の直前、後頭部が何かに激突した。
吐き気がする。
瞬きができない。
しかし、私の脳はまだ死んでいなくて、状況はすぐに把握できた。
便座である。
鋳物の便座の縁で後頭部を強打し、私の眼球は慣性によっていったん頭蓋の方向に引っ込んでからその反動で眼窩の外に半分くらい飛び出してしまったのだろう、だから瞬きができないのだ。
眼球の乾きを感じる。
もちろんすでに私の尻は糞の上。
でももう気持ち悪いとか臭いとか汚いとか痛いとかそんな感覚はなくなっていた。
しばしそのまま便座を枕に横たわっていると、目の前にちょこんと座る我が家の駄犬が見えた。
やがてちゃかちゃかと足音を立てて、寝そべる私の足元まで歩き、人間のように目を細めた。
ひょいとあげた片足の向こうから黄色い小便が放たれ、それは私の足にかかっているのだけれど、本来気持ち悪いはずの生温か味も感じることはなく、私はただ啜り上げ、しゃくりあげていた。
床に広がる犬の小便。
頬を伝う涙。
先ほどからゆらゆらと頭上で影の揺れを感じていてイヤな予感があったのだけれど、やはりそれは落ちてきた。
私の後頭部が激突した衝撃で揺れていたのは便座のふたで、やがてそれは私の飛び出した眼球を圧し潰すように落下して私の世界は闇に墜ちた。
どうだっていいか。
どうせなら豆腐のほうが笑えたけれど。
便所の柱に頭をぶつけて、今、私は死ぬ。
空は晴れ。
夕方にはきっと夕焼けが美しく、妻はりんりんと自転車のベルを震わせながら帰宅してくれる。
夕食は鍋がいい。豆腐をどっさり入れてくれよ。できれば角をまるくしてね、へへへ。もう今夜は労働しないから、一緒に食べよう。
季節は秋。
(了)