【エッセイ】詩を詠む
詩とは
時々書いておかないと自分でも忘れてしまうのだが。
私は詩人である。
では詩とはどんなものか?
そんなことは知らん。
そもそも私は詩という文芸をちゃんと頭では理解していないので、それを前提とした話。
詩を読んでみる
単に詩を読むということは好きで割と古典のような作家から現代の作家、有名無名プロアマ問わず、なんなら歌詞にいたるまで読んではいる。
じゃあ詩ってなに?みたいなことを訊かれてしまうと、これはもうまったく回答不能でありその理由というのはおそらく私は詩を極めて感覚的な言語表現として捉えているからで、例えば殴り書きのような散文、書簡、小説、日記の類であってもなんとなく「これって詩みたいじゃね?」的な感覚で読んでいることが間々ある。
おそらく詩を書く人の表現ってのはそれが小説であろうが絵画であろうが舞踏であろうが歌唱であろうが、どこか詩を詠む感覚の方向に偏る傾向にあるのではないかと推察している。
形式
古典的な詩というのは、これも始めっから「詩というものはこうでなくてはならない」と決めつけられた上でその形態が定義されているようなものでは無いと思うが、それでもやはり「なんとなく」ある程度の形式にハマっているような気がする。
まぁそれはそれで悪くはないし、外国人の詩を英語の意味なんぞ全くわからないままに原文で読んだ場合など、翻訳よりもむしろ詩的に感じることが合ってそれは海外の作品の場合、韻を踏むということが当たり前のようになっているために非常にわかりやすく、それは現代の詩や歌詞(ラップに限らず)でも同様なのだけど、古典の方が顕著に顕れているからだとも思う。
で、割と最近私が公開した詩はあえてかなり厳密に「形式」に当てはめて創作してみた。それがこちらである。
アナフォラ#1
これ、国内外を問わずよくある手法であって、私はわりと近年になってこの呼び方を知ったのだけどこれを「アナフォラ(Anaphora)」というのだそうで首句反復という手法だそうである。
タイトルのまんまです。
それで、ですね。
この形式って実際にやってみると、非常にやりやすい(笑)
私が普段「詩」と称して公開している作品については(小説もだけど)まったく考えて詠んでいるわけでもなく、表現について悩むこともなくだから、ことさら推敲することもなく極力誤字脱字のないようにその部分のチェックだけをして晒してしまっているわけだけど、上記作品も正直言っていつもの作品と創作の仕方は全く同じ、考えもしないし悩みもしない。していることは誤字脱字のチェックだけで内容は即興である。
前述の私の作品に関して言えば「夜から始める」という縛りをどこまでも続けたということだけで、内容というのは別に夜とは直接関係ない。
だから特に「夜」というテーマに沿って詠んだ詩でもない。
それでもこれを読むと、なんとなく「夜のお話」みたいな感覚になるし、「夜」というワードを起点としたリズムが自然と築かれるので、最初は違和感を持ちながら詠んでいても次第にグルーヴが生まれてきて、気持ちもノッてくる。
ノリ
そこで私は「ははーん」と得心した。
特にそのことを考えなくてもひとつの語句を繰り返し聴いていると、人はノッてきて、意識の上に脈絡もなく現れては消えるイメージをポンポンと吐き出すことができるようになるのではないか。
ジェームズ・ブラウン「セックスマシーン」のゲロッパと同じ、もっというとファンクとかGOGOとかいう黒人音楽にある徹底したリズムと言葉の反復と同じ。飽きても飽きてもそれをひたすら繰り返すとハイになる、トぶ。感覚が麻痺して本能が剥き出しになる。獰猛になって野獣のように襲いかかりたくなる。いや。
結論
詩についての極私的な考察。
詩は剥きだしにされた獰猛な本能。