【短編小説】読女没落
★「初仕事」
>発表されてからかれこれ四半世紀に近い時間が経過し、作家もそれ以来新作を発表しておらず謂わば究極の一発屋という感じもあるのだがその後、日本に於ける文芸、漫画、映像、ゲーム等のエンターテインメント作品に展開される所謂「デスゲーム」の基盤となった小説がある。
あまりにも有名な作品なので題名は伏せるが、この作品はその後有名監督によって映画化され、そのショッキングなストーリーや映像、また当時若年層による凶悪犯罪が多発していた時勢の影響から、公開時の規制を巡って国会での議論にまで発展したのだが結果激にはR15の規制かけられた上で公開された。
ただ、監督のこの映画に対する思い入れは深く、中学生を題材にした作品を中学生に鑑賞させられなかったことから翌年、視覚的に更に刺激的に編集、シーンの追加等をされた上で「特別編」として公開された。
監督がなぜ再編集してまでして翌年公開をしたのか。
規制によってオリジナル公開当時15歳だった子供たちが16歳になり、正々堂々とこの映画を鑑賞できるようにという監督の熱意と意地、この作品の内容がどれほど残虐であろうとも、その時代をリアルタイムで生きている子供たちが見ておくべき作品であるという強い信念があったからだろう。
この監督は後日、目の前で友人達が日常的に死んでいったという戦時中の自ら経験した悲惨な思い出とこの映画への想いについて語っている。
この作品は例として挙げた迄の事だが本来、表現と言うのはこういうものだと私は思っている。
それが文学、芸術指向の作品だろうと純然たるエンターテインメント作品であろうとお笑い芸人のネタであろうと休日に路上でパフォーマンスする趣味の活動であろうと、有形無形を問わずその人の作品である限り、どのような規制、制限に対してもあらゆる手段を使い、例え失敗に終わったとしても抵抗し、悪足搔きしながら発表し続けるべきものでありまた、それが表現者の責務である。<
「かってぇなー、かてーかてー」
ビクッとギクッとした。突然声をかけられたその驚きに身が跳ね、耳にかけていた長い髪がばさりと落ちてやや視界を遮った。
まず編集者として、それを生業にしたいのであればとにかく徹底して文章に慣れろ、まぁなんか記事書いてみれば?読むより書く方が早いよ。
「はぁ、そんなもんですか、ならやってみます」
本好き、読書好き、読み専。小さい頃から今まで趣味と言えば読書とちょっとだけ映画鑑賞、みたいなアタシはその趣味の延長線上でいつか自分が寝る間も惜しんで読み続けたこういう本を編纂してみたい、という妄想的な願望を持つようになり、日々作家先生と打ち合わせやらなんやらで忙しく立ち回ってバリバリ仕事をこなしつつしかし、ある時担当したイケメン作家と恋に落ちやがて結婚して幸せに暮らしましたとさ、みたいななんだか最終的にその憧れの方向が編集に向いているのか結婚に向いているのか自分でもよくわからないことになってしまったまま思春期を終え、読書三昧恋愛皆無なキャンパスライフを満喫した後にめでたく某出版社に就職したのは良いが、読む側ではなく書く側の業務をいきなり命じられてしまって、これは一発、自分が常日頃から感じている文芸その他の表現活動に対する思いをぶつけた名文を提出してやろうと、鼻息荒く狂ったようにキーを叩き続け思い直して消しまた叩き消し狂い消し叩いて疲弊し、眼精疲労に陥っている今現在までに書き終わっているのが、上司から「かてー」と評価された冒頭の文章であって、入社以来約1ヶ月をかけて対処したアタシの仕事である。
初めての。
★「没落」
「没」
「え?」
しかも、おせー、おせーし、かてー。キミね、入社してすでに1か月近くたっているわけでね、そりゃ人間、慣れってのは確かに重要なので1週間や10日は突っ立ってるだけでもオッケーなんだけども、現在だいたいその2倍の時間が経過しているわけで、僕も毎日あなたが支給されたばかりのPCを壊すんじゃないかって心配になるくらいの勢いでキーを叩き続けていたのは知っていたし、その結果についてワクワクして、途中経過の確認をしたいのも我慢してとうとうその忍耐も限界に達した今、ちょっと覗いてみたところ、10行そこそこのかてー文章を見る羽目になって愕然とした。
だから。
というのが「没」というひと言に込められた上司の想いである。
見事。
ハゲのくせに。
270文字にも及ぶアタシの思考を「没」のひと言に集約したその編集力、人の努力を無慈悲に踏みにじるその勇気、あっぱれである。
新入社員にこういう言い方ってある?ハゲ。
ハゲ指導と言う範囲を逸脱してねハゲ?
パワハラじゃね?
★「非行開始」
270文字の原稿が没になる。
読書三昧恋愛皆無のキャンパスライフで自分でも確認できない程の文字数を読み耽ってきたアタシの書いた文字たちが「没」。
元来不真面目な方ではないし、今までの人生で飲酒喫煙を経験したことも無いというか経験したいと思ったことさえない。
基本的に本を読んでいるので学校でも電車内でも俯いていてそれほど友人も多くないというか友人と言うよりは知り合いという程度の人間しか周りにはいない。
ここまで読書を愛して生きてきたアタシが書いた文章は没。
読むと書くでは大違いという事で、それはもう痛いほど理解できたわけだが、今までの人生で経験したことのない脱力感を覚え、やがてそれは怒り憎悪破壊衝動などのネガティヴ思考に発展したのだが、外に向けて発散する術を知らないアタシとしては内に向いたネガティヴが鬱積してヤケクソを起こしてしまった。
そもそも今日が金曜日、明日も明後日も仕事は休み、世間で言う華金だったというこのシチュエーションに一番の問題がある。
アタシはその日の勤務後、非行に走った。
初めての。
不真面目ではないアタシの中では非行=飲酒喫煙であって、鬱屈と虚無の果てに非行願望を持ってしまった今となっては非行に走る者の気持ちが理解できる。
すぐさまコンビニでタバコと目につく限りのアルコール飲料を手当たり次第にカゴに入れ斜に構えて店員を見下し「お会計は・・」という店員の語尾に被る感じで「いくら?」と横柄に尋ねたところ目も眩むような高額請求をされて一瞬、非行は断念しようかとも考えたのだけれど、この虚無を振り払わないことには来週からの業務に差し障ると思い、膝の力が抜けて崩れ落ちそうになりながら支払いを済ませると、さっそく店外でヤンキー座りを決めた。
まず500mlの缶ビールを開栓して喉を鳴らしながらそれを呑んでみた「まっずっ!」どういう理由から好き好んでこれを呑むのか?しかし高額支払い後に気持ちの小さくなっていたアタシにはその不味い飲み物を捨てる度胸は湧かずとりあえず飲み干し、次にテネシーウィスキーの350ml瓶を開栓して呷った「グッ・・ボッ!」的な自分でも信じられない下品的な音的な波動的な何かが喉や胸から湧き上がって来て、灼けるような熱を帯びながら早くも口内に胃液が競り上がる危機を、更にもう一口呷って押し流す事でどうにか切り抜けた。
つもりだったが今度は食道がバーナーで焼かれるような症状を呈したアタシの肉体は脇にあったゴミ箱に手を突き、ゼイゼイと荒く酒臭い息をまき散らし、通行人の蔑視に耐えていた。
アタシの非行の始まりであった。
初めての。
★「生命の危機」
非行は命がけだぜと確信したのは通行人からの蔑視によって最下層に堕ちた自分のランクを一気に持ち上げようとして「HOPE」と書かれた小さい箱を開封し、一本抜き取って同時に買ったガス式の使い捨てライターで着火後、一気に吸い込んだ時である。
あ、死ぬな。
これに尽きる。これ以外に形容し難い体調の急激な悪化。
まずこめかみから広がって顔面、頭部、頸部と拡散する鬱血。ドクンと脈打って膨らみ再度脈打つと萎む感覚。それを何度か繰り返した後に現出する悪寒と、それに応じて顔面が蒼白に変化していくのが実感できる恐怖。
文字通り目が回る、景色が回転し、同時に襲ってくる激しい動悸に心臓が破裂するのではいかと焦燥したアタシは思わず胸を押さえて地べたにへたり込んだのだが、そうしたら尻からの冷気でなんとなく鬱血が解消されて行くように思え、歪んだ思考が再度非行願望を覚醒させた。
アタシはテネシーウィスキーを呷りHOPEを吸い込んだ。へたり込んでグラグラしながらそういうことを繰り返していた事は覚えている。
それ以外の事は微かに、断片的に、ぼんやりとして、ほとんど忘れてしまった夢のような記憶しかない。
かと言って非行に走ったアタシの身に起きたのは夢のような、奇跡のような出来事では無かった。
★「倉庫にて」
目を覚ました途端即座に嘔吐した。俯せだったのが幸いだった。仰向けなら自分の反吐で窒息死していただろう。
凄まじい頭痛。意思とは無関係に内臓を灼きながら競り上がってくる反吐。脈打つ全身の血管。ブラウン管テレビの水平同期が狂った如く上下に揺れる視界。その視界が捉えているのは見たことも無い場所。ここはどこだろうと少し頭を上げて横に動かすと今度は垂直同期が狂った如く、左右に視界が揺れた。とりあえず自室ではないという事だけはわかったが、なにしろ薄暗く、現状を把握すべく揺れ倒れ身を起こし吐くと言う無様な行動を何度も繰り返してようやく、近くの壁に縋りつき背を当てて足を投げ出すような姿勢で座ることができた。
ゴボゴボと口から反吐を溢れさせ揺れながら周囲を見回すと、極めて高い天井のところどころに蛍光灯が点っている薄暗くだだっ広く全体がコンクリで造られているそこは、おそらく倉庫であろうと推察できた。
尻が冷たい。
アタシが倒れていたコンクリの床にはブルーシートが敷かれていて、今はそこに座っている。反吐の湧きあがりがひと段落してやや呼吸ができるようになったアタシは、ぶふぅーと臭い溜息を突いて自分の体に目を落とした。
髪が落ちて視界が狭くなっていたがそれを掻き上げる気力が無い。狭い視界に映っている風景に現実味が無い。しかし尻の冷たさには現実味があって、何故こんなに尻が冷たいのかと震える手で触れてみた。
素尻であった。
なぜ素尻?考えると頭がガンガンするので、とりあえず現状把握だけする事にして尻に触れた手を見ると赤く粘着的な液体に塗れている。膝丈濃紺のスカートが捲れ上がり、そこから覗く太腿が同様の液体に塗れている現実を把握した一瞬、アタシの脳は息を吹き返した。
”犯されたようだ”
そう判断した直後、アタシはまた嘔吐しやがて脳は、再び視覚による現状把握モードに切り替わった。
暗さに馴れた眼が体の傍で発見した異物に手を伸ばし、拾ってみた。
なんとなく湿り気を帯びてぶよぶよするそのゴム袋を眼前にぶら下げて凝視する。
白濁した液体が大量に入っている。
”これは使用済みコンドームである”
把握した直後、アタシはまた嘔吐した。
ブルーシート上のあちこちに同様の異物が多数散在している。
コンドームを装着するだけ良識のある強姦魔だったのかもしれないが、行為自体が下衆の極致なのでそれは評価に価しない。
”まさかの輪姦、あるいは単独だとしてもアタシの肉体を使用して複数回の射精が行われた”
そう把握した直後、アタシはまた嘔吐したくてオエオエと喉を鳴らしたのだが、結局何も吐けなかった。
輪姦て。
言葉は知っているし、官能小説からの知識としてその行為の様子も想像できるのだが、そんな事って現実世界で頻繁に起きること?しかもそれを体験してしまったかもしれないなんて超レア。
処女だったのに。
★「土曜日03:13」
吐けない代わりに股間を中心として全身に激痛が走りまわり始め、悲惨な現実と乖離して無感動なまま、アタシは涙を流していた。鼻水も涎も垂れていた。まあとっくに化粧は剥がれているだろうし、出勤前に整えたロングヘアもぐしゃぐしゃだろう。その上、顔面は反吐と涙と涎と鼻水で汚れ、穢された下半身は血塗れで全身が痛い。
現時点までの生涯読書量の約5パーセント程度を占める官能小説には多数のレイプ物が存在するが、まさか現実で自分がそういう目に合うとは思ってもみなかった。
よろよろと立ち上がり、壁際に投げ捨てられていたショルダーバッグを拾い上げてまず財布の中身を確認すると、免許証もクレジットカードもちゃんと入っていた。コンビニでの高額支払い後で残りわずかな現金も、抜かれてはいなかった。バッグの中にはスマホも残されていた。金銭目的のついでに犯されたのではなく、純粋に性欲の捌け口としてアタシの肉体は使われたという事であろう。
まったく記憶に残っていない、これがセックスか。
初めての。
倉庫の巨大な引き違い扉脇に普通サイズのドアを発見、ノブを回すとそれは開いた。外は真っ暗である。24時間表示にしている小ぶりで白い腕時計の液晶が土曜日の03:13を告げていた。
夜明け前。
周囲を伺いながら少し歩くと案外、自室の近所だという事がわかった。
人目に付くまいと薄暗く細い道を選んで、ぐしゃぐしゃに汚れ果てたアタシはとぼとぼと歩き自室に戻った。戻って最初にしたのは冷蔵庫から取り出した天然水をがぶ飲みし、炊飯器で干乾びる寸前の白米にそのまま食卓塩を振りかけて手掴みで貪り食うという事だった。
この状況下にあって帰宅後まず最初にシャワーを浴びない段階で、女子力ゼロ。
そうだ、警察に通報しようと思い立ちバッグを開くと、混乱の余り現場で拾った使用済みコンドームを投げ込んでしまったようで、その中から零れた強姦魔の性液でスマホがベタベタになっていた。気力が尽き、全身から力が抜けてそのまま床のカーペットに倒れた。
土曜日と日曜日、アタシは天然水のボトルを抱えて時折それで喉を潤しながら、ほぼ同じ姿勢のままカーペットに転がっていた。転がりながら微睡み爆睡し何かに恐怖して体を跳ね上げながら飛び起き、そしてまた転がって微睡んでという夢と現実が交錯する定番サイクルをひたすら繰り返しながらずっと、断片化され散り散りになったような夢を見続けていた。
断片化され、朦朧としながら繰り返されたイメージの欠片をつなぎ合わせた夢はだいたいこんな。
『いきなり横っ面を張り飛ばされて「く、首がもげる」と感じながらアタシが吹っ飛んで転がったのはオフィスの床だった。もげなかったがあまりの衝撃に首が伸びたのを感じる。ぐんにゃりとした首というか喉のあたりにヌメヌメを感じて伸びた首を少し曲げると眼前に毛の薄くなった頭頂があり「かってーおせーかってーおせー」と棒読み無表情でつぶやきながら上司が仰向けのアタシの体に覆い被さっている。上司はふと顔を上げニンマリと笑って身を起こし左手でアタシの喉を締め上げてきたのでまた少し首が伸びてしまった。上司は「かってーおせーかってーおせー」を繰り返しながら右手に拵えた拳でアタシの顔面を何度も横殴りするのだがその間も首はどんどん伸びていてパンチの衝撃を吸収するのか全く痛みは感じない。でも首が伸びながらなぜかふと自分が全裸であることに気づく。上司はアタシを殴りながら突如アタシの性器に自分の性器を挿入してきた。このハゲ。パンチの痛みは感じないのに股間には激烈な痛みを感じて思わずのけぞったアタシの首はまた伸びて反り返った。その顔の真上に陰茎が見えてその向こうに、うっすらと見覚えが有るような無いような気がするダンディな顔立ちの中年紳士が笑っている。陰茎が伸びてくる。気味が悪い。しかしアタシの唇は開いてしまってダンディの陰茎が当たり前のように挿入される。陰茎は伸びてアタシの喉の奥に突き当たる。上司はいつの間にか殴るのをやめ、アタシの首を締めてくる。ダンディに喉奥を突かれ上司に首を締められて顔面が鬱血している。鬱血、そうだ飲酒喫煙をした時もこんな感じだった。アタシは口と性器の奥にねとねとして熱く滾る迸りを感じた。ダンディのペニスがアタシの口から引き抜かれていくのだがいつまで経っても抜けきらない。まるで三文手品師が口の中から出す万国旗よろしく引けば引くほどそれは伸びる。伸びていくペニスは眼前に広がり至近の部位には極太の血管が浮いていてそれが脈動するたびにどんどんとアタシの口中にダンディの精液が吐き出され続けている。呼吸ができずに咳き込むと精液は吹き上がりアタシの顔に降り注ぐ。ゴムくらいつけろよこのハゲ、早く抜け。股間に突き刺さった上司のペニスに対してそのような想いを抱くのだがなぜか声が出ない。いや、なぜか、ではない。首を閉められた上にダンディの精液がだくだくと溢れて息もできず声も出せないのだ。上司はまた腰を使い出した。抜かずの連射かよ。降り注ぐ性の雨がアタシの顔を髪を伸びた首を締め上げられている喉元を、ズブズブに濡らしていく。伸びた首を少し動かすと、自分の長い髪が顔にかかった。重っ!精液を含み精液に固められたアタシの豊かな髪はまるで鉄パイプのような塊となって顔面を砕いた。上司はアタシを締め上げながら性器を穢し、ひたすら注挿されるダンディのペニスは性を吐き出しながらアタシの唇と喉奥を穢しながらまだ伸び、やがてついに後頭部を突き破った。破壊された顔面から落ちる寸前の目玉は上司のハゲを忌々しく呪いながら砕けるはずだったしかし、ハゲていなかった。ふさふさつやつやサラサラの金髪に覆われたその顔はいつしか、まるでアイドルのような、しかしどこかで見た覚えが有るような無いような気がする童顔に変わり、崩れ果てたアタシの顔に微笑みかけていた。童顔がおもちゃを喜ぶようにアタシの肉体を弄びやがてスペルマを吐き出した時、アタシはダンディの精液を吹き出しながら獣じみた咆哮をあげその残響の中で逝った。強姦で処女を奪われたというのに、人生初のエクスタシー。初めての。』
こうして。
非行=飲酒喫煙どころではなく、アタシの非行は不純異性交遊にまで発展してしまった。
初めての。
★「臭」
臭い。
反吐、ヤニ、アルコール、スペルマ、皮脂、汗、尿、それらが全身に纏わりついて猛烈な悪臭を放っている。日曜が終わり月曜が始まった深夜、アタシは漸くそれに気が付いた。
特にヤニ。歯の裏側にタバコの葉が貼り付いているのではないかと疑うほどの悪臭が口腔から鼻に抜けてくる。アタシは歯茎から血が滲むほど歯を磨き、歯ブラシをゴミ箱に投げて新品に交換した。
その次。股間を中心に全身の毛穴から放出されている腐臭。アタシは久しぶりに浴槽に湯を張り、十分に皮脂を浮かせてから血が滲むほど全身を擦り、タオルをゴミ箱に投げて新品に交換した。
更に。風呂から出て全裸のまま、内部が干乾びた精液でテカテカしているバッグをゴミ箱に投げ、クローゼットから学生時代に使っていたリュックサックを引っ張り出して代用とした。
スマホは主に経済的な問題からゴミ箱に投げることは不可として、除菌ティッシュで隅々まで拭き取り、継続使用することとした。
★「社会復帰」
土曜日曜とほぼ同じ姿勢でいた為、体がガチガチに固まっていて動きは悪かったが全身の痛みは緩和されていたし、睡眠も過剰になっていて結局朝まで眠ることができず、定時よりも1時間以上早く、8時前には出社して没をPCのモニターに表示し、ぼんやりと眺めていた。
まだ全身が臭い気がする。
そもそも自分がこんなに臭くなったのは非行に走ったからで、その非行の原因となったのは上司のパワハラである。
謂わば上司のパワハラのせいでアタシの処女は無残に奪われ全身が臭くなってしまったのである。
そうだ、このハゲはあろうことか夢の中にまで現れてアタシを犯した。
こんなハゲに犯される夢をみるなんてこれはレイプによって生じた混乱とハゲによるパワハラの相乗効果によるもので当然このハゲにもアタシの錯乱の一因はある。
パワハラに拠って精神的ダメージを受け、鬱病などを発すれば労災に認定される可能性もあり、そうすると会社から賠償金慰謝料の類も含めた保証を受けられるのではないか?よし、業務終了後に心療内科を受診して診断書を書かせよう。
没を眺めつつ、アタシの脳内でそんな悪だくみが渦巻いている間に始業時刻が近づき、同僚がパラパラと出社してきた。自分の悪臭に気付かれないかとハラハラしていたのだが、隣席の男性社員はそっけなく「おはよう」と言っただけだった。
その時、パワハラ上司がなんとなく見覚えのある、長身のシャキッとした熟年紳士を伴って現れた。上司に飛び掛かって喉笛を掻き切ってやろうかという衝動に駆られたが、それをすると鬱病の労災認定以前にアタシ自身が逮捕されて悪だくみが実現しないと考え直し、睨みつけるに留めた。
熟年紳士は爽やかな笑顔で室内をぐるりと見まわし「みなさん、おはようございます!」と良く響く声で挨拶をし、社員ひとりびとりの肩や背中に軽くボディタッチしながら馴れ馴れしく話しかけ始めた。
「なんでそんな怖い顔してんの?とりあえずその、かってー原稿を消してよ。給料日恒例の社長朝礼が始まるんだから」
パワハラ上司がアタシの耳元でそう囁いた瞬間、お、なんだなんだ、また犯す気か?罪の上塗りか?と心の中で毒吐きながらも性器の奥がドクンと疼いたそんな自分にムカついて、八つ当たりでハゲの喉笛を掻き切る準備をしたのだが次の瞬間「あ、そうだ、あの背の高い人、社長だった。しかも今日は給料日だったか」と気付き、社長の前で給料日に上司を殺すのはちょっと気が引けて中止した、まさにその時。
「おはよう、どう、仕事には慣れた?」
社長がアタシの肩をポンと叩き、モニターを覗き込んで、没を見た。
「ほほー、なんか興味深い記事書いてるんだね、僕ね、この作品の事よく覚えてるんだよね。ショッキングだったからねー。頑張って良い記事にしてね。ちょっと文体が堅いけど」
長身の社長をアタシは見上げる感じになった。社長は上品に微笑みかけている。なんてダンディな微笑み。ん?このダンディってもしかしてあの夢の中でアタシの口にペニスを突っ込んで突いて突いて突き抜いたあの化け物では?ん?ん?
ともあれ、巨根社長は没を「没」とは言わなかった。パワハラセクハラ強姦上司は薄くなった頭を掻きなが半笑いで「がんばってね」と巨根社長に同調した。ともあれアタシの記事は没を免れた。
ざまあみろ、パワハゲ上司めが。
★「至福」
小ぶりで白い腕時計が月曜日の9時を示し、社内にチャイムが鳴ると同時にスマホにメールの着信があった。取引銀行に振り込みがあったという通知で、一昨日の非行に伴う散財で経済的困窮に陥っていたアタシは急ぎ明細を確認した。
「え?」
ついつい声が出てしまった。
すごいな社会人。1ヶ月かけて270文字書いただけでこんなにお金がもらえるのか。文字単価で換算すればそこいらのヘタレ新人作家などの遥かに上を行っているのではないか。
そして何よりこれだけあったらいったい、何冊の本が買えるのだろうか?
その嬉しい想いで労災の件はアタシの心から霧消した。
銭を稼いだ。
給料を貰った。
初めての。
アタシは終業後に、心療内科ではなくまず本屋に寄ってリュックサックにいっぱいの本を買った。
重くなったリュックのおかげで、一昨日無残に処女を奪われたアタシが笑っている。
アタシはリュックの重みで後ろに倒れそうになりながらコンビニに入り、焼き肉弁当と共にビールとテネシーウィスキーをカゴに入れてレジに向かった。嬉しい気持ちで買うアルコール飲料に非行は感じなかったし、本も含めてこれだけの散財をしても懐にはまだまだ余裕があった。カウンターにカゴを置いた時、タバコが視界に入ってアタシはまたHOPEと書かれた小さな箱のタバコを買った。
「お会計は・・」と言う店員と目が合った。一昨日は非行の真っ最中で気が付かなかったが、金髪童顔で可愛い系のイケメンだった。
ん?
ん?
なんかアタシって無意識に視界に入った男全員に夢の中で犯されてないか?ああ、もうダメだ、アタシの清廉純潔なこれまでの人生が一気に淫乱放埒な珍道中に激変してしまった。
まぁでも淫乱だろうが放埒だろうがお金があれば生きていけるんだよ、そうだよそれをアタシが今から証明してあげるよ。ああ腹が立つ、またグレようかな?でも今日は徹夜で本を読むからセックスはしないよ、ムフフ。
憎悪と歓喜の間で揺れ動きすぎて少々気が変になっているのを感じたアタシは。
とにかく。
支払いを済ませて。
レシートが発行されるのを待っていると、イケメン店員が可愛い笑顔でボールペンを差し出してきたので、アタシは思わずそれを受け取ってしまった。
「?」
アタシはボールペンを見て首を傾げた。
「今夜、空いてる?一昨日の続きとか、どう?」
イケメン店員はそう言って照れたように笑った。
アタシはレシートの裏に電話番号を書いて彼に渡し、スマホを握りしめた。
このスマホ。
一時はバッグの中にぶちまけた童顔のスペルマで、童顔の性液で、童顔の濁液でベタベタになっていたのだ。
穢らわしい。
忌々しい。
もしかしたら筐体とスクリーンの隙間とかカメラのレンズの金具周辺とかにまだあの男の体液がこびりついているのかもしれない。
穢らわしい。
忌々しい。
アタシはスマホの表裏前後上下にくまなく舌を這わせた。
アタシの唾液と童顔の性液が混じって長い糸を引き、コンビニの明かりが反射して煌めく。
その光を浴び、踊るように、スキップしながらアタシは部屋にもどり、大量の本が入った思いリュックを床に放り投げると、すぐにバスルームに向かった。
風呂を出て全裸のまま、濡れた足でリュックを踏みつけ、部屋の隅に思いっきり蹴飛ばした後、床の上にスマホを直角水平に置き、正座して画面を見つめている。
髪からポタポタと水が垂れて画面が濡れる。
今のアタシって前よりもずっといい匂い。
(了)