【更新中】リヒャルト・シュトラウス
参考文献:田代 櫂・著
『リヒャルト・シュトラウス 鳴り響く落日』
・シュトラウスはヒトラーの音楽趣味をやや偏った特殊なものと感じていた。
《ダナエへの愛》を無視されたことや、シュテファンツヴァイクのダイフォンのおかげで酷い目にあったと思っている。
・シュトラウスは大戦前の2年間、帝国音楽局総裁の位置にあり、ナチスの協力者として国外から非難を浴びていた。
その嫌疑が取り消されるのは、終戦から3年後。
・シュトラウスは「ナチス幹部の多くは立派な人たちだった」と語る。例えばポーランド総督だったハンス・フランク、オストマルク(オーストリア)の管轄者バルドゥール・フォン・シーラハなど。
・トーマス・マンが、ミュンヘン大学で『リヒャルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』と題する講演をした時、ヴァーグナーの尊厳を傷つけられたと感じたミュンヘンの文化人たちが、連名の抗議文を発表したが、そこにはリヒャルト・シュトラウスの名もあった。この事件をきっかけにトーマス・マンは長い亡命生活を余儀なくされた。
クラウス・マンは米軍の機関紙「スターズ・アンド・ストライプス」でシュトラウスを恥知らずのエゴイストと非難し、この記事によってシュトラウスの評価は極めて悪化し、その状況は現在ではあまり変わっていない。
・シュトラウスは宗教にも、国家にも、人種にも、何ものにもとらわれないと言う筋金入りのエゴイストだった。
それは利己主義とは違う、究極の個人主義であり、(自覚的なエゴイズム」である。
それをマックス・シュティルナーやフリードリヒ・ニーチェから学んだ。
・シュトラウスは音楽好きなナチス幹部の数人と親しかったが、ユダヤ人迫害に荷担した事は無い。むしろ迫害に歯止めをかけていた。
シュトラウスはユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクとの共作をめぐって、ナチスに激しく抵抗し、帝国音楽局総裁の地位を追われた。
・ヒトラーのもとで軍需大臣を務めたアルベルト・シュペーアによる、ナチスはシュトラウスをドイツ最大の作曲家として利用価値を持っていたとすることの証言。
「フルトヴェングラー、ヴィルヘルム・ケンプ、リヒャルト・シュトラウスのような人々は、いわば国家の財産と見なされていた。
彼らが不同意や疑問を表明すれば、それについて彼らと話し合いがなされた。彼らが納得しない場合は、警告が与えられ、監視が付けられた。どのような事情があろうと、彼らの国外移住は認められなかっただろう。国家の体面を汚すようなことは、何一つ容認されなかった。」
・シュトラウスの守銭奴的ネガティブな人間像を喧伝したのはグスタフ・マーラーの妻アルマである。
しかし、シュトラウスは人並みに金が好きだったが、彼が稼ぐギャラや印税は、売れっ子の画家や小説家から見ればささやかなもので、だからこそ音楽家全体の収益向上考えて、著作権問題に積極的に関わり、そのために私財をも提供しようとした。だがアルマはそのことには口をつぐんでいる。
・シュトラウスは悪妻家として評判を落としたが、実際には自ら恐妻家を演じて面白がっていた節がある。実際のシュトラウス夫婦は、かけがえのない伴侶として深く愛し合っていた。
・トマス・ビーチャムやバーナード・ショーと友人で、シュトラウスもユーモアと毒舌を併せ持っていた。
・ある音楽学者がシュトラウスを「仮面の達人」と評したように、彼の中には相反する顔が矛盾なく共存していた。《サロメ》や《エレクトラ》ではモダニストであり、《ばらの騎士》では反動主義者だった。
・シュトラウスについては人格だけでなく、その作品もかなり疑問視されている。そういった評価は、シュトラウスをベートーベンの後継者であるブラームスやブルックナーやマーラーと比較することからきている。
・シュトラウスの手法的には、ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーら、オーケストラ・ヴィルトゥオーゾの系譜に連なる。
そして精神的にはモーツァルトやハイドンやバロックの音楽家たちと結びついている。
・標題音楽について次のような意見を述べている。
「詩的なプログラムは、音楽の新たな自己形成の刺激とはなるだろう。だが、音楽が自分自身の中から論理的に転換していくのでなければ、それは『文芸音楽』でしかない。」
・シュトラウスの交響詩は、大抵ソナタ形式や変奏曲、協奏曲で、ライトモチーフの適切な使用により、有機的な発展と構造上の統一を備えている。
多くの主題を張り巡らし、それらを綾織りのように展開する技巧において、シュトラウスの手腕は並外れていた。
・ロマン・ロランによれば、シュトラウスはこう言ったと言う。
「自分が書く劇的シンフォニーは、劇場が使えない際の次善の策なのだ」
実際シュトラウスは《ドン・ファン》や《ティル・オイレンシュピーゲル》をオペラとして完成しようと考えたこともあった。
・《アルプス交響曲》を例外として、彼は交響詩を30代までに書き上げ、残りの40年近くオペラ作曲家として生きた。
・歌曲は200以上書いており、中でも《4つの最後の歌》は、マーラーの絶唱大地の歌と並んで独唱とオーケストラによる屈指の名曲である。また、合唱曲の分野では《ドイツ語のモテット》が傑作。
・シュトラウスを偏愛したグレン・グールドはこう書いている。
「芸術と時代は一対であるとするこの不思議な仮説に最も被害を受けているのは、最近の芸術家ではリヒャルト・シュトラウスである。彼は音楽的技巧にかけては最高峰を極めた巨匠の1人であり、それを本気で否定できる批評家はほとんどいないのに、それにもかかわらず全く時流からはずされ、甚だしく誤解されている芸術家である。」
・⭐️シュトラウスは40代前半に書いた《サロメ》と《エレクトラル》で無調への境界を越えようとした。
しかしそれをはっきりと声を向けるようになる。
多くの中産階級がそうだったように、彼は社会主義を恐れ、秩序破壊的な無調の音楽を嫌った。
彼は音楽の大衆化を嘆き、映画やラジオやジャズに反感を覚え、19世紀的なブルジョアの世界観を固持し、オペラに最後の望みを託した。
・シュトラウスは2作目のオペラ《火の試練》で、故郷ミュンヘンの退嬰性を糾弾したが、生粋のバイエルン人である彼は保守的であることを避けられなかった。
・ドイツの著名な評論家パウル・ベッカーは、音楽史における19世紀的進化論を否定し、芸術の世界に進化はなく、各時代のメタモルフォーゼ(変容)があるだけだと語る。
父フランツ・シュトラウスについて
→リヒャルト・シュトラウスの職人気質の根幹
参考文献:『リヒャルト・シュトラウス 鳴り響く落日』(p29-)
・父はヴァーグナーに伝説的ホルン奏者と絶賛されたフランツ・シュトラウス
・父フランツ・シュトラウスは1822年にオーバープファルツの丘陵地帯で生まれた。
・祖父ウルバン・シュトラウス、祖母クニグンデ。
クニグンデの弟である、叔父のヨハン・ゲオルグからクラリネットやギターや金管楽器を習い、厳しい師弟時代を送った。
ヨハン・ゲオルグはヴァルター家の家業である塔守をしていた。
塔守は街の内外を監視する見張り番であったが、音楽的素養も職業の1部だった。
塔守とその家族は、町のお抱え楽団を務め、教会や葬式、酒場、お祭りで演奏する役割があった。
・塔守の2人の弟フランツ・ヨーゼフとヨハン・ゲオルグは、バイエルン公マックスに認められ、お抱え楽団に加わるために、都ミュンヘンに行った。
・マックス公はツィターの名手でもあり、「ツィター・マクスル」とも呼ばれ、この楽器を通じてバイエルの民族音楽を庇護した。
フランツ・シュトラウスは15歳のときに、2人の叔父達に続いて、ギター奏者としてマックス公の楽団に加わった。
・⭐️ヴァルター家の家内工業的な音楽師(ムジカント)の魂は、リヒャルト・シュトラウスの音楽の根幹をなしている。
それは精緻な芸術作品であると同時に、民衆の生活と喜びに密着した手仕事でもあった。
職人の魂は、シュトラウスの音楽の中にも引き継がれている。
リヒャルト・シュトラウスのアイデンティティであるバイエルン人について
・ゲルマンとラテン文化の接点であり、バイエルンや姉妹国オーストリアに特有の華麗なバロック芸術は、南方のカトリック美術と切り離せない。
・バイエルン人は独自のアイデンティティーを持つことで知られる。
彼らはドイツ人と呼ばれることを嫌う。
それはプロテスタントに対するアレルギーでもあり、プロイセンの軍国主義、官僚主義、権威主義に対する反発である。
一般にバイエルン人は農村的、保守的、享楽的と言われる。
・⭐️ミュンヘンの陽気さに裏表がないのに比べ、ウィーンの笑いにはペーソスやメランコリーが混じる。
ミュンヘンでは王侯でさえいくらか農民風だが、ウィーンでは庶民でさえいくらか貴族的である。
後に数多くのオペラを共作したシュトラウスとホフマンスタールの間にもこのギャップが付きまとった。
・⭐️ビール大名と呼ばれたヨーゼフ・シュトラウスはリヒャルト・シュトラウスの母方の曽祖父は、国王にタメ口で挨拶をした。
このおおらかさは、バイエルン特有の平等主義のお手本であり、バイエルン人の信条は貴族も百姓も金持ちも貧乏人も神の前では皆平等であり、国王でさえ隣人の1人であるとする。
・バイエルンは1806年に王国に昇格し、北のフランケン地方と西のシュヴァーベン地方を併合して、領土を倍近く広げ、マックス・ヨーゼフは初代国王となった。
彼は分け隔てない性格によって、民衆に慕われるつつ亡くなった。
そして2代目国王は、彼の長男ルートヴィヒ2世である。
ルートヴィヒ1世はギリシャ・ローマの賛美者であり、美術品の収集や建築を通じて、ミュンヘンを芸術の都にしようと目論んでいた。
・父フランツ・シュトラウスは、ルートヴィヒ1世の治世の半ば頃、1837年にミュンヘンに行き、1845年には市民権を与えられ、47年に宮廷オーケストラの無給の見習いとなる。
リヒャルト・シュトラウスが生まれるまでの過程
・フランツはベンノ・ヴァルターの見習いを1年勤めた後、正式な楽団に昇格し、ヴァルトホルンとヴィオラを受け持った。
1851年にフランクフルトのオーケストラに勧誘され、以後40年間ミュンヘンの宮廷オーケストラに忠勤を尽くす。
・勧誘を受けた1851年エリーゼ・マリア・ザイフと結婚した。しかし2年後に男の子が生まれるが結核で世を去り、その翌年コレラの蔓延により妻と幼い娘も亡くした。
・⭐️妻と娘を亡くした2年後から、フランツはプショル家に出入りするようになった。
ヨーゼフ・プジョルの息子ゲオルグ・プショルには5人の娘があり、その中のヨゼフィーネと結婚して翌年1864年に長男リヒャルト・ゲオルグ・シュトラウスが生まれる。
・リヒャルトが産まれた年の3月に、マクシミリアン2世が崩御し、18歳のルートヴィヒ2世が即位した。
ルートヴィヒ2世は風変わりな芸術愛好家で、革命騒ぎでドレスデンを追われたリヒャルト・ヴァーグナーを招聘し、1865年6月に《トリスタンとイゾルデ》の初演を成功させ、音楽史の片隅に名を刻む。
・リヒャルトが生まれた翌年フランツ一家はゾンネン通りに転居し、1867年6月に長女ヨハンナが生まれた。
その後プショルブロックの表通りに面した4階の住まいに移り、フランツは亡くなるまでそこに住み続けた。
・⭐️シュトラウス家は倹約を旨とし、子供たちにチョコレートが与えられたのは、クリスマスか病気の時だけだった。
リヒャルト・シュトラウスのヴァーグナーの影(p43-)
・フランスはモーツァルト、ハイドン、ベートーベンを崇拝し、シューベルトやウェーバー、メンデルスゾーンやシュポーアを愛した。
彼は情緒過多な後期ロマン派を嫌い、ベートーベンの《第七交響曲》フィナーレにヴァーグナー的な匂いを嗅ぎ取る。
《タンホイザー》は受け入れるが、《ローエングリン》の甘ったるさを好まず、後期ヴァーグナーを全く拒否した。
・ハンス・フォン・ビューロウは彼を「ホルンのヨアヒム」と讃え、優れたホルン奏者だった指揮者ハンス・リヒターも、1867年5月にフランスを訪ねて敬意を表した。
・ 1868年ワーグナーは《ニュルンベルクのマイスタージンガー》初演のためミュンヘンに来て、初演指揮者ハンス・フォン・ビューロウの家に滞在した。
リハーサルでは、コンマスのベンノ・ヴァルターやフランツ・シュトラウスらがビューロウに反抗的だった。
ビューロウの過酷な練習にうんざりし、腹を立てていた。第二幕の殴り合いの動機を嫌っており、リハーサル中に突然《アグスティン》を吹きはじめ、ビューロウを激怒させた。
フランツの考えでは《マイスタージンガー》のホルンパートは、クラリネットにふさわしいものだと考えていた。
リヒャルトの友人テュイール
・1877年 13歳のリヒャルトは、3歳年上のルートヴィヒ・テュイールと出会う。
・ルートヴィヒ・テュイールは6歳で母、11歳で父を亡くし、インスブルックの親戚を訪ねて未亡人パウリーネ・ネギラーの出会う。
そしてインスブルックのギムナジウムに通い、ヨーゼフ・ペンバウワーにピアノやオルガンら音楽理論を学ぶ。
ヨーゼフ・ペンバウワーもナギラー夫人もフランツ・シュトラウスの知人で、その縁でリヒャルトと出会う。
・テュイールはギムナジウム卒業後、フランツの助力で、ミュンヒェンの王立音楽学校に入学する。2人は文通を楽しみ、競争心も生まれた。
・1881年にナギラー夫人が亡くなり、テュイールが遺産を相続する。
・1882年王立音楽学校を優秀な成績で卒業し、ピアノと和声学の講師として迎えられ、1903年には作曲科の教授になる。
門下にはエルネスト・ブロッホらがいる。
共著に『和声学』がある。
・リヒャルトはテュイールの交響曲を初演し、ベルリンでは彼のオペラ『グーゲリーネ』の第3の幕をコンサート形式で上演した。
・テュイールは1907年心臓発作により45歳で急死する。
ヴィーハンの妻であり、リヒャルトの恋人であるドーラ・ヴァイス(p55)
・父フランツはチェロも巧みで、宮廷オーケストラの主席チェロ奏者ハンス・ヴィーハンと親しかった。ヴィーハンはボヘミア最高のチェリストといわれ、リヒャルトは《チェロ・ソナタ》作品6を捧げた。
・ヴィーハンはプラハに戻って音楽院教授を務め、ドヴォルジャークの《チェロ協奏曲ロ短調》作品104を献呈される。
・ヴィーハンの妻ドーラ・ヴァイスは、ドレスデン出身のピアニストで、リヒャルトの妹ヨハンナと仲が良かった。
・ヴィーハンが飲んだくれて帰宅するような生活に耐えかね、1885年にはドレスデンの実家に逃げ帰り、夫が後を追う騒ぎが起こる。
・ドーラはリヒャルトより4歳上だが、いつの頃からか恋仲になり、リヒャルトがパウリーネと結婚するまで何かと人の噂に上った。