音楽を食べて生きている-蜜蜂と遠雷を読んで
音楽をやる上で「自分らしさ」が大切だと思ってきたけれど、「自分らしさ」とは何か言い切ることができなかった。
*恩田陸さん著「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎)の読書感想文です。
音楽の哲学書に出会った
「趣味はピアノ。クラシック音楽が好き。」
自己紹介の決まり文句だ。
ピアノを弾くことが好き。
ピアノを弾くことができる。
でも、それと同時に、「全然ピアノが弾けない。」
おい、さっき弾けるって言ったばかりだろ!と突っ込まれそうなので、説明すると
たとえばYouTubeを観る。すると、ストリートピアノでめちゃくちゃかっこいいアレンジでカラフルな音を出して演奏している人がわんさかいる。聴衆を巻き込んで、即興演奏もしていてレパートリーも多い。楽しそう。
たとえば初めて見た楽譜で、サラッと弾けてしまう友だちがいる。このことを「初見演奏」っていうんだけど、こんなのができるのはプロしかいないと思ってた。
楽譜を見た瞬間、それがそのまま指に反映されるなんて。見たものを瞬時に音楽にするってイリュージョン。プリンセス天功だらけ。
すぐに、わたしより上手に、数多くの曲を弾けてしまう人が、この世にはごまんといるのだ。もちろん彼らがそうなるまでの努力をしてきたのは重々承知している。
わたしはと言うと、小学生から中学生まで9年間、ピアノを習っていた。それなりに努力もしてきた。亀のようなスピードで1曲弾けるようになってきた。ピアノが弾けないわけではない。
亀でも地道な努力をすれば必ず弾けるようになるのがピアノだと知っていたから、練習は嫌いではなかった。むしろ好きだ。
1曲が100小節ある曲はすぐには弾けない。けれど、1小節ずつ確実にスラスラ弾けるようになれば、いつか100小節まで辿り着ける。
ピアノの練習は、まるで人生のようだ。こんなことを子どものときに悟っていた。
悟るのもいいが、ごまんといる「弾ける人」を見ると、やっぱり「羨ましい!」と思う。
わたしもこのくらい弾きたい、、!!!!
そう思っているうちはまだいい。
気づけば、劣等感に苛まれている。
「わたし、全然ピアノ弾けないじゃん。」と。
弾ける彼らと比べているからだ。
だから、『音楽はね、その人が弾くからいいのよ!自分らしさが大切なのよ!あなただって、時間かければ1曲は弾けるでしょ!』と、お節介おばさんをどこからともなく出現させ、納得させて音楽をしていたことも多々ある。
音楽が好き。ピアノが好きだし、好きなものはもっと知りたい。
好きなものが題材になっている本は、誰だって自然と興味を持つだろう。
【蜜蜂と遠雷】という「ピアノのコンクールを舞台に描かれた小説」を知り、エンタメ感覚で手にとった。
この本を読めばクラシックの知識やピアノのことが少しわかるようになるかな、くらいの軽い気持ちで。
読後。
これは単なるピアノのコンクールの話なんかじゃなかった。もっと大きい「音楽そのもの」の教科書だ。
音楽と人間について書かれた哲学書のように感じられた。
今は何十回と読んでいる。お気に入りのフレーズは暗記してしまうくらいに。もう本がボロボロだ。音楽がダダ漏れ状態。
「感じるだけ」と「感動する」は別物だった
音楽だけでなく、「芸術」と呼ばれるものには個性や自分らしさが垣間見える。
登場人物に、高島明石というコンテスタントがいる。
彼の祖母は、クラシック音楽の知識は何もなかったにも関わらず、彼の体調や気分を音から聴き分けており、奏者の性格までも音から言い当てていたというエピソードがある。
素人のわたしでも、演奏を聴くと人柄を感じられることが多々ある。
奏者がそのような性格なのかはわからないが、「繊細だな」とか「自己主張が激しいな」とか「優しいな」とか。
音は人間性を表すとつくづく思う。
「大胆」「迫力がある」「悲しげな印象」「陽気なオレンジ色」。ポップコーンが弾けるように、感じたものが形容されて言葉になっていく。
ピアノを弾いているときにも、演奏を聴いているときにも情景がありありと脳裏に浮かぶ。
もしかしたら人より想像力が豊かなのかもしれない。ピアノを練習するとき、よく楽譜に物語や湧いて出てきたイメージを描いている。
しかし、「感じること」は無限にあるけれど「感動する」ことは別だった。
ここで感動とは、「心を動かすこと」と定義づけよう。
「こう感じた」と、感想を述べることはできる。けれど、心が動かされるとは限らない。
音間違いもなく、とっても美しく綺麗なメロディーを聴いているのに、「綺麗だな」と感じるだけで感動はしないことがある。
わたしの感動の神経回路が麻痺しているのだろうか。
上手く言い表せないんだけれど、
「綺麗だな」と「綺麗で感動したな」というのは全く別のもので、後者の「感動したな」と感じるほうには「自分らしさ」が含まれているからなのではないかと、推測していた。
たとえるのなら、「美人(イケメン)だな」と感じることはあっても、「美人(イケメン)だから付き合いたいな」と思うとは限らないでしょう。それと同じ。わかるかな、このちがい。
「自分らしさ」を訴える背景にあるもの
「演奏するなら、感動を与えたい」
演奏会をよく開いていたので、こんな思いを持っている。
誰かとは違う自分らしさを出さねばと。
読み進めていくと、「自分らしさ」についてこんな文章を見つけた。
中国勢は大陸的というのかスコンと抜けた大きさがある。
(中略)
羨ましいのは中国のコンテスタントから受ける揺るぎない自己肯定感である。あれは日本人にはなかなか持ち得ないものだ。
日本人が言う「自分らしく」というのは、他者に対するコンプレックスや自信のなさやアイデンティティの不安から逃れようとして口にするものであり、「自分らしさ」はさまざまな葛藤の末に手に入れるもの
「蜜蜂と遠雷(上) p.232」
胸の内を見透かされているようだった。
そうだ、自分らしさをスローガンに抱え、自分らしさ主義のように、ガンガン前に押し出していたわたしは
コンプレックスから来ていたものかもしれないと思った。
自分より上手に弾ける誰かと比べて、ようやく手に入れた自分らしさだった。
他者と比較し、そのコンプレックスから逃れるために名付けた自分らしさは、真の自分らしさとは言えないのではないか。
ネガティブな側面がベースになった自分らしさでは、ネガティブなところが伝わってしまう気がした。
そうではなくて、"真の"自分らしさを手に入れたい。
では、真の自分らしさって何だろう。
少し話を戻す。
音楽を聴いたときに感じる、「感じるだけ」と「感動する」ときのお話。
・技術もあるし音間違いもない。美しく綺麗なピアノを奏でているのに感動はしない。(感じるだけ)
・音ミスがあってデコボコな音楽をしていても、心が動かされることがある。(感動する)
この違いは、どこから来るんだろう?
読み進めて思ったことは、音楽との向き合い方が違うからなのだという結論だった。
それなら、音楽そのものを学ばなければならない。
「音楽」はどこにあるの?
世界は音楽に満ちている。
この本で度々出てくる特徴的なフレーズだ。
ピアノを弾くとき、楽譜を見る。そこから音楽が造られていく。
楽譜に喰らい付いていると、音楽は楽譜の中にあるのでは?と思ってしまう。
というか、音楽はどこにあるのかなんて、考えたこともなかった。
楽譜を読みこみ、作曲者の時代背景を知りピアノを弾いていく。クラシック音楽のスタンダードなやり方だ。コンクールに参加したことはないけれど、そこに現世の"意図的に差をつける"イベントが行われていたら尚更、楽譜を「正確に」読もうとするだろう。
確かに、曲の仕組みや当時の背景を知ることは重要だ。どんな音で演奏され、どんなふうに聞こえたか、知ることは大事だ。けれど、当時の響きが、作曲家が聴きたかった響きだったのかどうかは誰にも分からない。
(中略)
音楽は、常に「現在」でなければならない。博物館に収められているものではなく、「現在」を共に「生きる」ものでなければ意味がないのだ。綺麗な化石を掘り出して満足しているだけでは、ただの標本だからだ。
「蜜蜂と遠雷(上) p.396」
美しい化石を見せつけられても美しいとは思うが、それ以外に何も残らない。
わたしが感動するときは、奏者がその人自身の音楽を生きているときだ。
そうだ、音楽は今ここにある。作曲したときのままの音楽があるわけではないんだ。
楽譜に忠実に演奏することは必要だが、それだけでは美しい化石のままだ。そこに命を与えなければ感動はしない。
作曲者が曲を全部知っているわけではない
音楽は作曲家がつくるものだと思っていた。
「曲を作る」と書いて、作曲。
しかし、作曲家の菱沼はこう言っている。
「本当に作曲者は自分の作った曲を分かってると思うかい?」と。
え!?!?作曲者が誰よりもよく曲を知っているはずじゃないの?だって曲を生んだ本人なんでしょ?
自分が作り、自分が誰よりもよくわかっている曲を、コンクールの課題曲として、コンテスタント一人一人に演奏させているのに関わらずだ。
菱沼の言っていることが、はじめはよくわからなかった。
続けて菱沼はこう言っている。
「もちろん、分かってるつもりではある。この音の意味、フレーズの意味、伝えたいことは分かってる。なにしろ作曲者なんだからな。天地創造をしているのはこの俺、つうわけだ」
(中略)
「だかねえ、結局、我々はみんな媒介者に過ぎねえんじゃないかって」
「作曲家も、演奏家も、みんなさ。元々音楽はそこらじゅうにあって、それをどこかで聴きとって譜面にしてる。更には、それを演奏する。創り出したんじゃなく、伝えてるだけさ」
「蜜蜂と遠雷(上) p.406」
目から鱗だった。
そうか、音楽は創り出さなくても、元々この世にあったんだ。
偉大な作曲家もアマチュア演奏家も、神様の声を預かって伝える預言者に過ぎない。
音楽を前にすると、みんな等しい。
プロの演奏者も作曲者も、アマチュアの演奏者も演奏はしない聴衆も。
衝撃だった。
音楽はそこにあるもの。
つまり、私たち人間が生を受けたときから当たり前にあるもの。
空気がないと私たちは生きていけない。
音楽は、空気と同じ存在だ。
わたしが生まれる遥か昔から存在していて、わたしが死んでも変わらず存在している。
モーツァルトやベートーヴェンという偉大な作曲家だって、音楽がすでにあるこの世に生まれ、預言者として生を全うしただけだ。
音楽は、人類が誕生するより前に存在している。
こうわたしは結論づけた。
さみしさを、孤独を、歌う
かつて歌は記憶のためのものだったという。歴史を残すための記録代わりに歌い継がれてきた、記憶のための歌。それがだんだんと変わり「何が起きたのか」ではなく「何を感じたか」が歌われるようになった。
ピアノを弾くときには、「感じているもの」をイメージして弾くことがあった。それは練習していて楽しいから、飽きないからという理由からだったけれど、イメージしてしまうというのは、本能だったのではないかと思った。
何百年何千年昔でも、人間が感じていることは今と大差ないのかもしれない。
根源的な「さみしさ」を、刹那を、生き物たちの長い長い歳月から見れば一瞬にしか思えぬ人生の幸福と不幸を。
「蜜蜂と遠雷(下) p.305」
私たちは孤独だ。一人で生まれ一人で死ぬ。だから歌わずにはいられない。
わたしが楽譜に気持ちや物語を書き込むほどイメージするようになったのは、両親が離婚し生活がガラッと変わってからだった。
唯一救いであるピアノを弾くとき、イメージせずにはいられなかった。無心になって楽譜に気持ちを書き殴り、演奏していた。歌わずにはいられなかった。
「さみしさ」を歌う。きっと音楽はそこからきたのだ。
地球上に生命が誕生し、ヒトが生まれ音楽をするようになった。
ヒトが音楽を作ったのではなく、空気と同じように音楽がある空間だからヒトが誕生したんだ。
だから、"音楽しよう、演奏しよう"と意気込まなくても呼吸するかのように音楽してしまうのだ。
一人一人は孤独でも、みんなが歌えば孤独のオンパレードだ。
ミュージックの語源は「神々の技」
(神様に愛されている)少年はミュージックだ。彼自身が、彼の動きのひとつひとつが、音楽なのだ。
「蜜蜂と遠雷(下) p.491」
そうか。わたしたちはミュージックだ。神様の手により造られ、今を生きている。それ自体が音楽なのだ。命の営みが音楽。
「自分らしさ」なんて考えることがナンセンスだった。
音楽は血肉となり身体に刻み込まれている。自然界からたくさんの音楽を、すでにわたしは受け取っていた。これからやるべきことは、音楽を自然にお返しすることだ。
地球上にいる、神様から選ばれたほんの77億人は、その土地その空気、その場所で音楽を食べて生きている。
誕生日は変えられない。生まれた土地も変えることができない。それを「運命」と呼ぶこともできるけれど、あえて名前をつけるのならこれこそが「自分らしさ」ということなのだろう。
目を瞑って故郷を思い出す。土の匂いや木々のささやき、隣の神社から聴こえてくる太鼓の音。わたしの自分らしさは、ここからいただいた。
「自分らしさ」なんて、すでに持っていた。わたしにしか持ち得ないもの。
蜜蜂と遠雷を読み終わったあと、ピアノを弾いてみた。
今までのように、上手に弾こう、音を間違えないようにしよう、と思うのではなく。
『宇宙が誕生したときから、ずっとここにある音楽をたくさんいただいてきた。だから「お返ししよう」』という想いを込めて。
いつもより、取り巻く空気があたたかく感じられた。
有限で一瞬の命を使って、永遠の音楽を紡ぎ出す。なんて儚くて美しいのだろう。
音楽することは悦びだ。