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冬になり、ちらほらと街がクリスマス模様になってきた。 今年、長女は 3 歳で迎えるクリスマス。 今年は 3 歳だから、そろそろなにか、欲しいものを言えるかな〜、と思って、長女に聞いてみた。 * もうすぐ、クリスマスだね。サンタさんに、なに、もらうの? (私の予想:なんだろう、トーマスかな?プリンセスかな?) 「サンタさんに あげるの」 えっ、もらうんじゃなくて、あげるの……? サンタさんに、〇〇 が、あげるの? 「うん あげるの♡」 (…なんと。もらうんじゃ
母になって 3 年になった。今月、長女が 3 歳になった。 この 3 年で、自分の内面がすごく幸せになったなと思う。 あたりまえのごく小さなことが、とても幸せに感じられるようになった。 子どもたちがはじめて見る草花は、私にとっても目新しい草花になって、 子どもたちと体験する夏は、私にとっても新鮮な夏のはじまりとなった。 自分の幸せを感じる “繊毛” のようなものが、あらゆる触れるものを、幸せとして捉えるようになってくれた。 子どもたちが生まれるまで、家でごはんを食べる
「うちの子、固まってて、な〜んもしてへんかったわぁー!」 そんなだれかのお母さんの声が、聞こえてきた。 わかる、わかる!私の娘 (3 歳) も、前回の保育園のお遊戯会で、な〜〜んにもしてなかった。ただ座っているだけだった。こんなお顔で。 (・o・) * その日は保育園の発表会だった。 昨今の状況下なので、クラスごとの入れ替え制のお遊戯会。 発表会場に入ることのできる人数も制限されていて、発表会を見終わったある園児のお母さんが、会場の外で待機していたお父さんに、子ど
自分とほかの境目がわからなくなることがある。 ゆらゆらと海中を漂うくらげが、自分と海との境目を分かってなさそうだったり、 たんぽぽの綿毛がふわふわと青空を飛ぶとき、綿毛は、自身と風とのあいだに境目を感じていなさそうなように。 * 子どもたちが生まれるまで、子どもを守るために危険な場面に飛び込んでいく親たちの姿を、ニュースなどで目にしても、その気持ちがあまりわからなかった。 子どもたちが大切なのは、とてもわかる、でも… やっぱり、こわいでしょう、と思っていた。 でも
次女の初節句だった。 先日、わが家は年中にんじん料理を作る、というお話をさせてもらったが、やっぱり雛祭りの日も、にんじんが登場した。 メインは手巻き寿司パーティーなので、今日作ったのは、お吸い物と、にんじんの小鉢のみ。ちょっと、心を込めた。 食卓をのぞきこんだ、長女。 『わー ! かわいい〜!♡♡ きれ〜い♡♡ おいしそ〜う!!たのしい!!!』 歓喜の声で、くしゃっくしゃの笑顔になって、拍手をしながら、褒めてくれる 2 歳の長女。 『おかーさん、かわいい!す
ただ一度だけ、「あなたは本当に目が美しいね」と褒められた事がある。「黒く、奥まで澄んでいる」と。 その言葉は、私には恐れ多すぎる褒め言葉だったけれど、能力とか、容姿とかを褒められいるわけではなく、自分の「生き方」そのものを褒められている気がして、とても嬉しかった。 * 人の目の美しさ、というものに、私がはじめて魅了されたのは、まだそんな褒め言葉をいただく随分前のことだった。 夫がまだ夫となる前、長らく私と夫は遠距離だった。 京都と東京にいて、共に学生だった当時はお金も
私には尊敬する人がいる。 その人は、とてもやさしい。 春に、『その人』は新しい部署に配属された。 そのとき、自らも新しい環境に身を置かれたばかりにも関わらず、同じく新しく部署に入ってきたオロオロとしていた同僚にそっと手を差し伸べ、「大丈夫だよ」と笑顔でなだめていた。 その私の『尊敬する人』は、普段から、困っている人を見つけると歩み寄る。 そして自分の大切にしているものをそっと手渡したり、手を差し伸べたりして、困っている人を笑顔にするのだ。 『その人』は、とてもよく人を褒