すばらしき 2 歳児
私には尊敬する人がいる。
その人は、とてもやさしい。
春に、『その人』は新しい部署に配属された。
そのとき、自らも新しい環境に身を置かれたばかりにも関わらず、同じく新しく部署に入ってきたオロオロとしていた同僚にそっと手を差し伸べ、「大丈夫だよ」と笑顔でなだめていた。
その私の『尊敬する人』は、普段から、困っている人を見つけると歩み寄る。
そして自分の大切にしているものをそっと手渡したり、手を差し伸べたりして、困っている人を笑顔にするのだ。
『その人』は、とてもよく人を褒める。
私がとくに尊敬しているのは、その褒め方だ。
「〇〇ちゃん、かわいい」「〇〇ちゃん、おもしろい」
極めて純粋に、楽しそうに褒める。
褒めたその先に、なにかを求めているわけではない。
自分もかわいいと言われたいから、かわいいと褒めるわけでもなく、
褒めたら相手が喜ぶだろうから、褒めるわけでもない。
単純に心からかわいいと思うから、かわいいと褒める。
それはまるで、note で非会員ユーザさんが、スキした先にスキを返してもらう事なんかを考えず、純粋にスキしたいからスキしてくださるかのように。
『その人』の職業は、保育園の先生ではないのだけれど、まるでそのようだ。
赤ちゃんのオムツを率先して替えてくれるし、赤ちゃんにごはんを「あーん、もぐもぐ、美味しいよ」と食べさせてあげるし、もし電気コードを引っ張っていたら「危ないからだめよ」と言って、せっせとコードをまとめてくれる。
そして何より、天性の才能を感じるのは、私には決して引き出す事のできない、赤ちゃんの突き抜けた笑顔を一瞬にして引き出すことができる事だ。
あんなに赤ちゃんがケラケラと爆笑するのを、私は『その人』の前以外で、見たことがない。
少なくとも、どんなに私が赤ちゃんをあやしても、あんなふうな笑い方は、しないのだ。
さらに『その人』は、旅館の女将さんのように働き者だ。
重たいお布団も慣れた手つきで丁寧に敷いてくれるし、自ら喜んで洗濯物をたたむ。米とぎをし、食器洗いもする。そのすべてが喜びに溢れている。
机をピカピカに拭くその背筋は、美しいほどに真っ直ぐだ。
そして最後に、私は『その人』の感性がとても好きだ。
小さな自然の変化に驚くほど気が付く。
私は化学の研究者なのだが、まるで私とは違う専門分野の研究者であるかのように、同じものを見ていても目の付け所がちがうのだ。
だから『その人』がいるととても楽しく、世界が広がる。
いや、広がる、というよりも、別世界を見させてもらっている感覚だ。
私だけでは決して味わうことのできなかった世界を、その人と一緒なら見させてもらうことができる。
それに、『その人』の感性は豊かで独特で、日常の何でもないことを大げさにおもしろおかしくできる。
どんなお笑い界の人よりも自然体で面白いと、私は思っている。
なにもないところから、日常に彩りを与える天才だ。
なのに、『その人』の世間の評価はそんなに高くない。
イヤイヤ期、魔の 2 歳児なんて呼ばれ、下の子が生まれたともなると、赤ちゃん返りが大変すぎるとかなんとか。
そう。
『その人』
とは、私の娘だ。
いまちょうど 2 歳半になったばかりの女の子。
*
「春に配属された新しい部署」とは、「保育園の進級した 1 歳児クラス」のことだった。
困っている人に差し出した「自分の大切な物」とは、保育園のおともだちに渡してあげた「お気に入りのおもちゃ」だった。
かわいがっている『〇〇ちゃん』とは最近生まれた “妹” で、今はまだ 0 歳の赤ちゃんだ。
世間では「魔の 2 歳児」呼ばわりされる 2 歳。
個人差もあるだろうし、もちろんそんな時もあるだろう。
でも、 2 歳児の名誉回復のために言いたかった。
私は、『その人』をいつも見ているから知っている。
2 歳児ってなんて素晴らしいんだ・・・!
いつも感動をありがとう!!!
と。
*
果たして私は、ここまでの事を、日々できているだろうか。
“困っている人に躊躇なく、スっと手を差し伸べたり”。
“家事を率先して大喜びで行なったり”。
“毎日の小さな幸せを、盛大に祝うことができたり”。
それから、それから…。
この子が生まれるまで、世間の言葉から想像していた 2 歳と、実際のところ私が目の当たりにした 2 歳とは、全然違った。
そこは未知の、素晴らしき 2 歳の世界だった。
*
私はこの『小さな2歳』からいつもたくさんの事を教わっている。
『この子』のおかげで、はじめて、「可愛すぎて涙が出る」という事も教えてもらった。
それは、嬉し涙ではく、感涙でもなく…
私の語彙にはない新しい種類の涙だった。
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