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INFJ-T 頑張ることをやめた話。「普通」になれない私へ。 【①】


こんにちは、Sakiです。

フランスでの生活も4ヶ月が経ちました。
フランスでのワーホリをきっかけにnoteを始めてから、これまで主にフランスに関する情報を記事にしてきました。スキをしていただけることも増えてきて、とても励みになっています。これからも、たくさん書こうと思っているので、また覗きにきてくださいね!

日本から海外に出てきて、改めて自分の価値観や可能性を見つめ直す機会が多く、その度に頭のなかを整理する日々です。これがとっても疲れるし、それこそ精神的に落ち込むこともあります。ストレス耐性のない人間なので、メンタル面を保つのは大変です。

さて、今回の記事ではいつもと少し方向性を変えて、私自身のことについて少し書いてみようと思っています。私が普段考えていることや感じていること、人生観、価値観・・・。そういったプライベートなことを少しずつ言語化して、記録しておこうと思ったのです。

学生時代、大学では日本文学を学んでいて論文を書くことが多かったので、長い文章を書くことに苦痛を感じることはなく、寧ろこうして文字として言語化することが好きなのです。だから、Xのような文字主体のSNSが好きなんですね。(ツイ廃です。公開しているアカウントでいつも反応してくれている方、そして鍵垢で繋がっているリア友たち、ありがとう。)

ということで、今回は私の自分語りであり、自己満足のための記事になります。今日はMBTIという性格診断の話と私の人生観(?)の話。
はじめて自分のことを記事にするので、ちょっと楽しみ。どんな記事になるかな。

INFJ-Tの私

記事のタイトルにある通り、私のMBTIはINFJ-Tです。
診断結果を読んだとき、私は「まさに自分のことだ」と感じたのを覚えています。
あまりにもその分析が当たっていたので、ちょっと怖かったくらい。

INFJは一般的に「洞察力が高い」「共感力が高い」「平和主義者」と言われ、「他者を助けるためなら多少の自己犠牲も厭わない」と表現されます。加えて、INFJの人は全人口の1%ほどしかいないため、「他者から理解を得られない」ことで「他者と自己の違い」を突きつけられ、「孤独を感じる」とも言われています。ストレスに敏感であるというのも特徴です。

私自身、平和主義的な感覚は確かにあります。例えば他者から頼み事をされたとき、心では「断りたい」「Noと言いたい」と思っていても、自分が断ることで、あるいは自分が自分の意見や価値観を通そうとすることで、相手が不利益を被る場合もしくは相手との関係性にヒビが入りそうな場合などには「Yes」と口にするのです。自分の本心を曲げて、他者のための選択をしているわけですから、自己犠牲とも言えますよね。INFJの自己犠牲とは、こういう自己犠牲だと私は考えています。

つまり、進んで人の役に立とう!役に立ちたい!というような積極的な自己犠牲ではなく、「ここで自分が断ったら?」「ここで自分がNoと言ったら?」と、持ち前の洞察力を発揮し、先の展開を予想したうえで、「もしもこうなってしまう可能性があるなら、関係性が不安定になるなら、自分は今Noと言うべきではない。ここはYesと言った方がよい」と判断する。自分が自分の気持ちに蓋をすれば、きっと全てが上手くいく。だから、言わない。だから、他者を優先する。こういう自己犠牲です。謂わばINFJなりの処世術のようなものだと、私は思っています。

問題なのが、例えばこのように本心が「No」の場合、口から出たこの「Yes」には、INFJなりの様々な思考と葛藤が含まれてるのですが、端(他者)から見ればそれはただの「Yes」だということです。そのため他者からは「Yesと言ってくれた人」「快諾してくれた人」として咀嚼されます。口に出した言葉の背景にある、思考や葛藤は誰にも気づかれることがなく、誰にも想像されることがないのです。

INFJの私の思考について、もうひとつ例え話をしてみます。

例えば小説の登場人物の台詞に「私は幸せです。」という言葉が出てきたとします。一般的には、文字通りそのまま受けとり、「この人物は幸せを感じているのだな~」と捉えるのが正解だと思うのですが、INFJの私はそうではありません。

「この人は本当に幸せなのか?」
「口では幸せだと言っているだけで、本当は違うのではないか?」
と思うのです。

表に出てきたものではなく、見えないもの・隠されたものを読もうとする。
これがINFJの私の思考です。
私自身が表に出す感情や言葉に制限をかけているからこそ、他の人もそうなのではないか?本心では口に出したこととは違うことを望んでいるのではないか?と思うのです。
それゆえに、他者の発言の真意を汲み取ろうと必死になることが多々あります。

INFJが希少であることは既に述べましたが、私は未だに自分以外のINFJの人に会ったことがありません。同じINFJの人なら、分かってくれるでしょうか。私と同じ感覚を持っているでしょうか。

今でこそ、自分の思想や価値観について論理的に分析することができるし、INFJであるという診断結果にも納得しているのですが、高校に入学する以前の私は、今のような人間ではなかったように思います。以前の私は将来というものに希望を感じ、積極的に他者に自分の夢を語るような人間でした。(当時、文学になんて興味もありませんでした。図鑑ばかりを読んでいるような子どもで、小学校中学校ともに、図書館で借りた本を読んでいないまま返却していました。)

しかし、もしも今、「あなたはどんな人ですか?」と聞かれたら、私は「諦念の人」だと答えると思います。高校生のときに、はっきりと自分の思想が変化し、今のかたちに固定化されたできごとがありました。(この話も、いつか記事にできたらいいな)
それ以来、私は自分を「諦念の人」だと認識しています。
中学以前の同級生が今の私に会ったら、人が変わったと思うでしょう。もし当時にMBTIをしていたなら、きっと診断結果もINFJではなかったのではないかと思います。

「諦念」と言えば、「すぐ諦める人なんだろう」と悪い印象を持たれそうですが、私の言いたい「諦念」というのは、「身の程を知っている」という意味です。
自分の能力に合っていないものをやろうとは思わないし、自分にできそうにないことをしようとは思わない、ということです。要するに、なにかをしようとか、なにかをしたいという気持ちを抑制し、コントロールしている状態。気持ちだけで前に進んでしまわないように制御しています。(以前の私は寧ろ気持ちだけで前に進むタイプでした。やりたいならやる!という感じ。)

さて。

なぜそんなことをしているのか、と聞かれそうですが、私は身の丈に合わぬことをするのが苦痛に感じるからです。

しよう、したい、と考える前に、実際にその何かをしているときの自分が辛く感じるかどうかを考えるようになりました。INFJの洞察力、活かされていますね(?)
そして、きっと辛く感じるだろうな、きっと自分は耐えられないだろうなということに対しては、例えそれがしたいことであっても、しないという選択をするのです。

また、なぜそんな面倒(?)なことを・・・?

簡単にいうと、自分が死なずに済むからです。
自分で自分を手にかけることをせずに済むから。

死にたいという気持ちにならずに済むから、ということですね。
私の場合、辛いという感情がすぐに死にたいに結びついてしまうから、それを回避するためにこんな面倒なことをしているわけです。

頑張ることをやめる。

高校生のときのそのできごと以来、私は生きてきて、周りの人間が普通にできていることが自分にはできない、耐えられないということに悩んできました。周囲の人間、世間一般の人間とは、ストレス耐性といいますか、そのキャパシティが異なるようでした。周りが気にしないレベルのことを、一生気にしていたり。周りが普通にできていることが、自分にとっては死にたくなるほどに辛いことだったり。自分と世間一般は明らかに違っているのだと、きっと大多数の世間一般が正しくて、恐らく自分のような人間は少数で、そして間違っている存在であるという意識。世界から理解されるのは当たり前に大多数のほうで、私のような者が理解されることはない。

「自分にはそれができない、自分には耐えられない」と言うと、「でもみんなやってるよ?」「普通はみんなできるよ?」「みんなは頑張って耐えているのに、何故あなたはできないの?」と言われるあれです。
「ストレスに敏感である」、「他者から理解を得られない」ことで「他者と自己の違い」を突きつけられ、「孤独を感じる」。INFJであるという診断結果に納得した理由のひとつは、こうしたことの積み重なりでもあります。

つまり、私は「普通」になれないのです。「普通」になろうとすればするほど生きること自体が苦しくなります。自分が「普通」になるには、生きることを止めるしかないと思っていました。(そもそも「普通」になれないのだから、そんな人間は「普通」の世界から消えていなくなるしか方法がないのです。今でもそう思っています。)

私という人間がひとり消えたところで、世界が変わるわけでもなく、世界が終わるわけでもないので、それをするかどうかは私の勝手であり、自由だと思います。それをする権利もあるはずです。

それでも、飛び込みや飛び降りのニュースが流れるたびに、「迷惑だ」と非難されたり、「生きていたら楽しいことが・・・」などという言葉を見ると、私はいたたまれないのです。

自由であり、権利もあるはずなのに、
どうやらこの世界はそれをすることを許してくれないようでした。

もちろん電車が遅延・運休することを迷惑に思う気持ちも電車ユーザーとしてはよく分かりますし、それこそ受験みたいな大事な日に遅延・運休なんて、嫌でしょう。
気持ちは理解できるし、私もそんな日に電車が止まったなんてことが起こったら、焦ると思います。でも、同時に、生きることを止めるという選択を取った人の気持ちもよく分かるのです。だから、人身事故で電車が止まってしまって焦ることはあっても、それをした人に対する怒りのような感情は私にはありません。

「生きていたら楽しいことがある」って何ですか。
そんな言葉は何の解決にもなっていない。

〝いま〟が辛いのに、〝先〟の話をしないでくれ。

〝いま〟辛いのに、その〝いま〟は誰も拾い上げてくれないじゃないか。

太宰治の「女生徒」にこんな一節があります。

ひと思いに自殺してしまう人だってあるのだ。そうなってしまってから、世の中のひとたちが、ああ、もう少し生きていたらわかることなのに、もう少し大人になったら、自然とわかって来ることなのにと、どんなに口惜しがったって、その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。

太宰治「女生徒」

「生きていたら楽しいことが・・・」などという言葉は、「腹痛」を抱えたまま「山頂」を目指せと言っているのと同じだと、私は思います。
この世界は「腹痛」への処置をしてくれないのです。

では、「腹痛」を抱えたまま、「山頂」を目指すしかないのでしょうか。

そんな辛いこと、私にはできません。耐えられない。
この苦痛を抱えたまま登らなくてはいけないなら、いっそ下山したい。

しかし、下山をすることは、世界が許してくれない。

そこで私が考えたのが、「山頂」を見ないことでした。

顔を上げて「山頂」を見なければ、その山がどんなに高いか、分からない。

自分のような人間は「山頂」ではなく、「腹痛」を診ることを選ぶべき人間だと考えました。先ではなく、今を見て、この「腹痛」と向き合わなければいけない。残念ながら「山頂」を目指すパーティのなかに医者はいないのです。このままこのパーティに属していたら、きっとこの「腹痛」は見過ごされてしまう。裏を返せば、このパーティから離脱してしまえば、私は「腹痛」を抱えたまま「山頂」を目指す必要はない。

「山頂」を目指すパーティに属したままでいること自体を諦める。

それが、答えでした。

私は、「普通」になろうと頑張ることをやめました。
頑張ろうとすることも、もうやめました。

その一切が、身の丈に合わなかったのです。
その一切を、諦めることにしたのです。

そうしたら、案外生きられそうでした。

これが、私の言いたかった「諦念」であり、私が自身を「諦念の人」だと認識している所以です。「すぐに諦める人」ではありません。考えたうえで、諦めるのです。「普通」になれない私は、「普通」を諦めるしかありません。身の丈に合わぬことをするのが苦痛に感じるなら、それをすること自体を、しようとする気持ちやしたいという気持ちを、諦めれば良い。

とはいえ、「普通」であることを捨てるのはリスクもあると思います。「山頂」を目指す人たちと同じようには山を登れないということです。山の登り方から考えなければいけません。持っている登山道具だってきっと他の人たちより少ないし、彼らと同じペースで登り続けることも不可能です。なにより、独りで山を登らなければいけない。頼れる仲間もいなければ、同じ景色を共有できる人もいません。

山の登り方

人にはそれぞれキャパシティがあると、私は思っています。

なにを苦痛に感じて、そして、どの程度苦痛に感じるのか。
その苦痛に耐えられるのか、耐えられないのか。
辛いことを乗り越えられるのか、乗り越えられないのか。

「普通」登山隊から離脱してからは、精神的に少しだけ生きやすくなりました。今は山の登り方を考えているところです。

ワーホリで海外に来たのも、そのひとつです。
(新卒ブランドを捨てて、大学を卒業したその年にそのまま海外に来ました。「普通」ではないですよね笑)

山を登るために、「腹痛」の原因がフィールド(国)のせいなのかを知りたかったのです。
フィールドを変えるべきか、それとも変えずに足場のより良い道を探すべきか。

それを知りたくて、海外に来ました。

現在4ヶ月が経ちました。
ワーホリ生活を通して考えたことも、また今度記事にしてみたいと思います。

今日はここまで。

Saki

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