和装の染織図案のルーツは、円山・四条派の絵師達だった。
幕末から明治へと怒涛渦巻く歴史の流れの中で、京都は激変した。
芸術界を取り巻く環境も一変したと言う。
元治(げんじ)元(1864)年、幕府側と長州藩による市街地戦(禁門の変)に端を発した戦火は市中を覆い、約2万7千件の家屋が焼失した。
政治的混乱で復興も進まないまま、幕府は消滅。
明治新政府の発足とともに首都の座は東京に移り、京都市域の人口は35万人から20万人あまりに激減したとされる。
このことにより、京都のあらゆる文化が影響を受けた。
中でも、幕府や大名に仕えた御用絵師と、円山・四条派などといった町絵師たち大きな打撃を受けた。
京都は朝廷や公家など有力者の仕事を請け負う絵師のほか、数多くの町絵師を抱えていたが、人口減と経済低迷で絵の買い手がなくなったのだ。
仕方なく、腕の良い多くの画家が「染色の図案などを描き、日銭を稼ぐようになった」
明治になると、型友禅の発明により、図案の需要が増えたので、染織図案を生業とする絵師達が増えた。
皮肉なことに、これが京都の着物のデザインのバリエーションを広げ、図柄の質を一挙に向上させたのだ。
そんな中、1880年に日本初の絵画専門学校が設立された。それが、京都市立芸術大学の母体となる京都府画学校だった。
画学校の設立には、京都のみならず日本の芸術界の存亡がかかっていたのだった。
当時の京都画壇の重鎮達が教授人に名を連ねたのは言うまでもない。
図案家 成願義夫 記
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