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仏教界が語りたがらない暗黒の歴史

そして明治時代の蛮行愚行

大津市坂本に移転して驚いたことは沢山ありますが、「フェノロサ」の墓が大津市の三井寺法明院内にあることを知った時も驚きました。


さて、皆様はアーネスト・フェノロサをご存知でしょうか?

フェノロサを語るには、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という日本の愚行の歴史を思い起こさなければならりません。

明治維新後の日本は盲目的に西洋文明を崇拝しました。

日本人が考える“価値ある芸術”は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風は二束三文の扱いを受けていました。

写楽、北斎、歌麿の浮世絵に日本人は芸術的価値があると思っておらず、狩野派、土佐派といったかつての日本画壇の代表流派は世間からすっかり忘れ去られてしまいました。

特に最悪の状況だったのが仏像・仏画などの仏教美術です。

明治天皇や神道に“権威”を与える為に、愚かな一部の国学者や政治家達が中心となり、仏教に関するものは政府の圧力によってタダ同然で売却されたり破壊されていました。

また全国の大寺院は寺領を没収されて一気に経済的危機に陥り、生活の為に寺宝を叩き売るほど追い詰められてしまいました。

財政難の地方では最初から寺領を狙って廃寺が行なわれるケースも多々ありました。


廃仏毀釈とは。…

日本人の手で日本文化を破壊した最悪の愚行です。
1868年、明治維新の直後に神仏判然令(神仏分離令)が発布され、各地の寺院、仏像が次々と破壊されました。
約8年間も弾圧が続き、全国に10万以上あった寺は半数が取り壊され、数え切れぬほどの貴重な文化財が失われました。
なんと薩摩では一時期全ての寺が破壊されたのです。

地方の行政官は中央政府に手柄(成果)を報告して出世しようと廃寺の数を競ったのです。

今では信じ難いですが、『阿修羅像』で有名な奈良興福寺の場合、寺領の没収と同時にすべての僧が神官に転職させられ、せっかく戦国時代の兵火から復興した伽藍を再び破壊し、三重塔や五重塔が250円で売りに出されました。
また塀が取り払われ境内は鹿が遊ぶ空き地となり、最終的には誰もいない無住の荒れ寺となってしまいました。

五重塔は焼かれる直前に周辺住民が火事の類焼を恐れて阻止したといいます。
また、別の寺では政府役人の前で僧侶が菩薩像を頭から斧で叩き割って薪(たきぎ)にしたという話もあるほど、仏教界は狂気染みた暴力に晒されました。

破壊された石仏群

ただ、不幸中の幸いだったことは、「神仏習合」によって寺の中に神社があったり、神社の中に寺があったりということが珍しくなく、うまく言い訳をして難を逃れた寺が少なくなかったことです。

例えば、現在有力な神社として知られる、「石清水八幡宮」や「鶴岡八幡宮」も神仏分離令が発令される前は、「石清水八幡寺」、「鶴岡八幡寺」でした。

かねてより、日本美術に造詣が深かったアーネスト・フェノロサは寺院や仏像が破壊されていることに強い衝撃を受け、仏教美術とその他の日本美術の保護に立ち上がりました。

自らの文化を低く評価する日本人に対し、如何に素晴らしいかを事あるごとに熱弁したのです。

さらに、岡倉天心とともに現在の東京芸術大学の前身にあたる、東京美術学校の設立にも重要な役割を果たしています。

 日本人以上に日本の美を愛し、日本人が忘れかけていた日本美術の素晴らしさをあらゆる機会に日本人に解き、日本の寺院や仏教美術を救い、近代日本の芸術発展の礎となりました。

そして、日本好きが昂じた彼は、ついには日本でキリスト教徒から仏教徒へと改宗してしまいました。

日本の美術や建造物の保存と価値を後世に伝えるために作られた『国宝』の概念も彼の発案です。

アーネスト・フェノロサはまさに日本仏教界と日本美術の大恩人なのです。

私が尊敬して止まないフェノロサの墓が近くにあると知った時は本当に驚きました。

「墓を琵琶湖の見える法明院に」との遺言を生前に残し、実際、1908年にロンドンで急逝したフェノロサの分骨が、翌年、遺言通りに法明院に葬られたそうです。

廃仏毀釈の真実を学校教育では積極的に教えるべきです。

この様な愚行が2度と繰り返えされない為にも。

法明院のフェノロサの墓。

和文化デザイン思考 講師

成願義夫


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成願 義夫(ジョウガン ヨシオ)
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