「放課後のプレアデス」を観て1カ月経った訳だけど。
こんにちは。久しぶりの更新です。最近は極めてノーイベントでグットなライフを送っていたので特にここで書くこともなかったのですが、まぁ夏休みだし。たぶんここの更新頻度も高くなるんじゃないかなぁと思うところ。
さて、僕が「放課後のプレアデス」を視聴して1カ月ちょっと。この作品は僕の心に大きなクレーターを残していったといって良いでしょう。作品を通じて確実に僕の中でいくつかの変化が生じていて、そういう意味で僕の人生の一つの特異点(ブラックホールだ!)になった作品とも言っていいんじゃなかろうかと。そんなわけでその辺について言語化しておきたかったので、そういう感じの投稿だと思ってください。
魔法少女的キャラクターデザイン
いろいろ言いたことがあって仕方ないのですが、自分の中のいわゆる「性癖」的なものへの気づきというのがあります。ストーリーの細かな文脈を考えるのも一興ですが、大々々前提としてこの娘たちメッチャかわいい...
元々「かわいさ極振りなキャラデザ」が好きだなぁという漠然とした感覚はありました。ギャルゲの制服みたいな、「いや現実じゃありえねーだろ」感のある、ちょっと欲かいてるキャラデザです。現実という殻を剥いで、ほぼ虚構でしかない、でも確実にかわいい、そういうキャラデザです。あれが好きなんです。
↑まぁここまでいくと欲かきすぎですが...
それと、「統一感と個性の両立したキャラデザ」。あれも好きです。デザインの根幹は共通させつつ、配色やアクセサリで個性を出す、あぁいうの。物心ついたときにはソレへの拘りが尋常でなかったので、おそらく戦隊ヒーローの影響なんじゃないかなと踏んでいます。
↑ものすごく的確な例
そしてその2つのキャラクターデザインが両立していたら最高です。そしてそれは魔法少女モノのキャラデザだと至極当然のように扱われている概念でもあると思います。
僕の中で何が変わったのか。要するにそういうキャラデザ=「魔法少女的キャラクターデザイン」が好きなんだ、という事への気づきです。「あ、オレ、魔法少女モノ好きだったんだ」みたいな。
どうしてそれに気づけなかったのでしょう。それは今まで僕が見聞きしてきた魔法少女モノが例外的なものばかりだったからだと思います。例えばオタクなら視聴せずともまどマギに登場する5人の少女の名前がスラスラ出てきますよね。僕だってそうです。うめ先生の絵柄めっちゃ好きだし。ところがまどマギに代表されるような10年代の魔法少女モノで話題に上るものは大概展開がシリアス極まりなく、そのような「魔法少女的キャラクターデザイン」の文脈に触れる前に「鬱展開」がそれを見えづらくしているんじゃないかなと。逆にニチアサに出てくる魔法少女(プリキュアとかおジャ魔女とかその辺)は先述の「欲かいてる」感がないというか、あくまで女児向けで成人男性向けのキャラデザではないじゃないですか。結構デフォルメされてますし。だから僕の中のセンサーが反応しなかったんだろうなぁと。
プレアデスは、(特に僕にとって)抵抗感の薄い日常系の文脈をキチっと抑えてくれているからこそ、「魔法少女的キャラクターデザイン」の良さをほぼダイレクトに感じることが出来て、それが自分の中の一つの「気づき」になれたんじゃないかなと思っています。しかし本当に可愛いなこの娘たち...
富士重工業の思うツボ
あまりにも今更感がありますがこのアニメってSUBARUとGAINAXの共同制作なんですよね。
僕の住処は群馬の太田。いわずと知れた(?)SUBARUのおひざ元です。YouTube版に出てきた↓はそれぞれ市内外の工場の名ですが、すべて自転車でチョロっと行けてしまう距離です。というか実家矢島だし。
で、そういう場所に住んでるとSUBARUが好きになるかと言われればその逆で、むしろややアンチの立場でした。友達は下請けで働いてましたし、街がSUBARUによって経済的に支えられてもいますから、よくない噂はすぐ街をめぐるものです。そもそも僕自身生粋(?)の車好きでもありますが、SUBARUのオーナー層には一種苦手意識がありましたし、実際それで面倒ごとになったケースも無くはないわけです。だからSUBARUはとっても身近で必要不可欠な存在でしたが、スバル車を買うことはまぁ一生ないだろうなぁと思っていました。
プレアデスは作品のさりげない部分にSUBARU要素をふんだんに使っていますが、だとしても企業のタイアップとは思えないくらい、その要素が作品をスポイルしてきません。逆に、あれほどまでの作品を「SUBARUらしさ」位置づけるのであれば、それらをひっくるめて「えっSUBARUすごいことしてない...?」って気持ちにもなります。製品を前に出すのではなく企業としての在り方を前面に押し出すというスタンス。これが他所の企業にできるかと言われればちょっと難しいような気がします。いい意味で変態でした。
プレアデスという作品を深く掘り進めるとそれぞれのキャラクターのモチーフとなった車もおのずと判明します。最近はVAB型のWRXを見ると「あ、あおいちゃんだ...」って言う変な癖がつきました。OEMだから見向きもしなかったトレジアの中古を探すようになりましたし、中型二輪免許取ってラビット乗りたいなと思うようになりました(関係ない)。友達のヴィヴィオRX-Rがうらやましくて仕方なかったりします(マジで関係ない)。
兎にも角にもSUBARUが好きになりました。きっと思うツボです。
「無限に広がる大宇宙」
変わった点3つ目、天文について。
今更言うまでもありませんがこの作品のメインとなる舞台は空と宇宙。作中には赤方偏移とかシュバルツシルト面なんて天文用語が当然のように出てきますし、エヴァレットの多世界解釈やら特殊相対性理論やらの概念を多少なり意識しないとつっかえる場面もあります。もちろんその概念が物語の理解に抵抗を生むことはありませんし、何も知らなくても十分に楽しめるのがこの作品の魅力でもあるのですが。要は魔法少女モノの皮をかぶったSF作品と捉えることも可能な訳です。「みなとの星宙」のあとがきでも
とにもかくにも、私の名前で買ってくださった「観てない人」にも面白く、「観てた人」には世界が深まり、全員がアニメを「何度でも見返したくなる」ようになれば、と願ってやみません。
-一迅社「放課後のプレアデス みなとの星宙」菅浩江 著 P.320より-
というお言葉があります。深夜の男性向けアニメ、という前提を取り払っても一つのSF作品として成立してしまうほどの魅力が確実にあります。
で、何が言いたいのかっていうと、天文っていいよね...
天文学のスケールの大きさを改めて知るのにプレアデスはいい題材となりました。1万auにある1兆個の星々の集まりであるオールトの雲、そしてその外側の"特異点"さえも巻き込んだ超巨大な世界は、13歳の少女たちの心の動き、というあまりにも小さな世界とのスペクトラムによって強烈なインパクトを僕たちに残していきます。この作品が一つのSFとして成立していたからこそ、作品内の「無限に広がる大宇宙」はリアリティを伴って僕らのもとに伝わってるんじゃないかなと思います。
そしてそういう世界を観てしまった以上、天文学の面白さに目を向けずにはいられません。何気なく空を見上げる機会が増えましたし、寄り添っているようではるか遠くにある星々に思いを寄せるロマンチストじみた瞬間がないわけではありません。
以前こんな記事を書いた通りで、私も天文に青春を少しだけささげた身。だから、天文に興味を持ったというより、復帰した、という言い方が正しいのかなとは思います。今年の夏は赤城あたりで星でも見に行きたいな...
アクセルは踏みっぱなしで
いい加減ストーリーに目を向けます。
僕は比較的、というかかなり、他人の顔色を伺いながら生きています。他人が自分に対してなんて思っているのか気になって仕方ないのです。僕が僕に対して下す評価はあくまで主観ですし。理由は様々ですが、とにかく他人を常に意識しながら、というよりおびえながら、言いたいこともマトモに言わずに静かに他人と関わっています。
さてさて、その一方ですばるはどうでしょう。比較するのも烏滸がましいってモンですが。彼女は誰に対しても真っ直ぐ、直球、ストレートです。「肉食系」という評価には激しく同意してしまいます。
時として、そのような人目をはばからない行動は、見る側に共感性羞恥を生んでしまうことがあります。「あっそんな事したら怒られる!嗤われる!」ってなる瞬間って、大概の作品に見受けられるような気が私はします。NEW GAME!のねねっちがプリン盗み食いした回とかもう一生観られる気がしない。まぁこれがキャラの成長につながるんで否定はしませんが。
ところがプレアデスにはそれがない。直球勝負のすばるを嗤う人はだれ一人いませんでした。もちろん彼女は作中で何回も失敗を繰り返しますし、彼女なりに傷つく場面も少なくありません。しかしそれらは周囲の環境や作品の展開によって強く、連鎖的に肯定されていくのです。
「変わりたいと願う自分」「変わってないと嘆く自分」「過去のしがらみ」「未来への失望」「出会い」「別れ」...それらがすべて優しく、「未完成なまま それでいい」「わたしよ わたしになれ!」という強いメッセージを添えて包み込まれる作品。それが「放課後のプレアデス」ではないでしょうか。
ちょっと宗教じみてきちゃいました。
自分も、そう他人を肯定できる人間でありたいな、と強く感じました。そして、すばるくらい直球で他人と関われたらどれほど僕にとって幸せだろう、と考えもしました。
彼女たちから学べることがまだまだありそうです。もう一周してこよ...
言語化って大変
いやあの、その、マジで語彙力もクソも無くて申し訳ないんですけど、あおいちゃんめっちゃかわいくないですか?????でも、なんで僕があおいちゃん推しなのか、それは全くわかってない。理解できていない。なんで好きなんですか僕?????
言語化できないんです。自分の「好き」という気持ちを言語化するのが、自分はすごい苦手なんだ、という気付き。これも自分の中では大きな変化じゃないかなと思います。
時々Twitterで「このキャラは〇〇が△△で□□だから好き!」ってタイプのツイート、見かけません?しかもその手のツイートはきちんと論理だって「好き」を伝えられているんですよ。読んでる側も「あぁなるほどな」って。僕にはそれが全くと言っていいほどできないんです。言語の処理能力がダメなのか語彙力が乏しいのか、はたまたそれほど考えずに作品と関わってしまっているからなのか、その辺は僕にはわかりません。
プレアデスを最初に見た直後、僕はすぐさま「この気持ちを言葉にしないといけない!」とnoteを開いて感想文を書いたのですが、今見返してみると中身がスッカスカなわけです。「なんも書いてねえじゃんコレ!!」みたいな。今更、某戦車道アニメのように「プレアデスはいいぞ」なんて言ったところで、既に4年前のアニメなわけですから誰もネタバレなんぞ気にする事はありませんし、ここでいくら感想を述べようとお構いなしなわけです。なのに書いてない。書けてない。
最近いくつかの考察ブログ様のお蔭でようやく自分の持っている気持ちが口から出せるようになってきて、友人への布教も出来るようになってきましたが。それでも最初にプレアデスを見たときの心の動きを自分の言葉で綴ることもできないんだと知った時、多少なり悔しさみたいなものも感じました。だからこうしてnoteを書いているんだ、とも言えます。「好き」を言葉にする努力はしないといけないな、と思いながら生きている次第です。
それはさておきあおいちゃんは青髪青メガネで見た目ボーイッシュで制服の上からジャケット羽織ってスパッツまでつけて女の子っぽさを消したキャラデザなのに身長140cmだから5人の中で一番背が低いし持ってくるお弁当はキャラ弁だし持ってる小物はマグカップも財布もいちいち可愛いし5話の冒頭で「男子」じゃなくて「男の子」って言い回しになっちゃうし自分以外をかわいく着飾ることについてはものすごく執着しちゃうんだけど服飾の技術は13歳のレベルじゃないし8話の私服のセンスは公式からも良いと言われてるしきっと将来はアパレル関係でバリバリに働くんだろうしモチーフになってるスバル車がWRXとかいうメーカー最速モデルだしドライブシャフトに自分だけウィングとエアインテークついちゃってるのに魔法使いになった時の姿がおおよそすばるの色違いだし基本的にすばると顔の距離が0に近いし作中で一番感情の矢印がでっかいしすばると別れたことがトリガーになって魔法使いやってるし2話ですばるにいちご牛乳の話されてジーンと来ちゃってるし7話である程度自分の気持ちに決着ついたのに12話の次回予告でやっぱりちょっとみなすば対して複雑な心境抱いてるんだけど作中よほどのことが無い限りメガネ外さなかったし目が隠れるっていうデメリットを踏まえてもフルリムのメガネにするっていう尋常じゃないメガネに対するこだわりが垣間見えるところが、まぁなんかよく分かんないんですけど、好きです。
彷徨うコンテンツ
無事プレアデスの世界観にスボっと嵌ってしまった僕ですが、当然過去に何にも嵌っていなかったわけではありません。過去を辿れば僕のオタクとしての出自は物心つく前に見たおジャ魔女どれみだと思います。はっきり自覚しているのは中2の時のVOCALOIDで、そこから東方とBEMANIに3年くらい、そのあと友人の勧め(脅迫)でゆゆ式をはじめとした「きらら」界隈にハマり、今は「ゆゆ式」の界隈にお世話になりながら時々型月とか城プロに熱したり冷めたりを繰り返しております。そう、今でもきちんと公式が動いている界隈なんですよね。だから、プレアデスの公式Twitterが動いていないことにものすごく寂しさを感じるわけです。
じゃあ誰が盛り上げるのでしょう。紛れもなく僕たちじゃないでしょうか。公式が動かない以上、同人たる僕たちが頑張らないといけないんじゃないかな、と無粋ながら思ってしまいます。どんな形でもいいから、「界隈」を盛り上げていけたらいいな、なんて思います。僕なら多少なりドットで絵が描けます。どこかでこの気持ちをメディアにして発していけたらなと。灯をともし続ければ公式から何かがあるかもしれませんし。
2021年はYouTube版公開から10年という節目の年です。そういうわけで2年後の何かに期待しながら僕は生きていきます。。。
長ったらしい自分語りになってしまいました。反省。
近いうちに聖地巡礼終えたいですね!
以上!