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「抗日戦争と中国人僧侶―日本軍占領地における大醒の「非協力」」

はじめに

 大醒(1900~52)は、近代中国仏教の改革者として著名な太虚(1889~1947)の高弟である。中国語圏や英語圏では、太虚の弟子としてのみ知られており、大醒の研究はなかった。しかし、それは彼の功績がなかったことを意味するものではない。
 筆者は以前、笠雲と太虚、そして大醒の三人の中国人僧侶が明治、大正、昭和の各時代に日本を訪れた旅行記を分析した。とくに大醒の『日本仏教視察記』(1936年)は、近代の中国人僧侶が書き残した惟一の本格的な日本視察記録であり、旧来の伝統的な旅行記とは大きく異なり、日本仏教寺院や仏教学の研究所の訪問紹介だけでなく、日本仏教をとりまく社会的経済的視点も兼ね備えた報告書として高く評価できることをあきらかにした(*1)。本論ではさらに分析を進め、大醒の日中戦争時期の活動について、日本視察の影響や日本人僧侶との関係から考察したい。
 大醒は著作の多い僧侶であるが、没後一〇年を記念して出版された『大醒法師遺著』には、大醒の著作『八指頭陀評伝』(1935年)、『日本仏教視察記』(1936年)、『口業集』(1934年)、『空過日記』(1935年)の四冊のみが収録されており、『地蔵経説要』と『随縁詩草』は入っていない(*2)。また、大醒が『海潮音』や『現代僧伽』などの仏教雑誌に寄稿した多くの文章も一部しか収録されておらず、特に日中戦争時期の著作はほとんど収録されていない。このため、日本軍占領地に残った時期の大醒については、印順(1906~2005)や東初(1908~77)の「仏教にも抗日にも消極的だった」(*3)という回想だけにもとづいたマイナスイメージしかなかった。
 しかし、戦時下ではたとえ特別に親しい友人でも互いの行動の全てを知ることはできなかったであろう。まして、印順と東初も日本軍占領地に残った僧侶であり、大醒同様日本軍と関わりを持った記録が断片的に残っている(*4)。日本軍占領地で活動した僧侶については、その言動の背景も含め、今後研究が進められる必要があると筆者は考えている。
 二一世紀以降、中華民国時期(1912~49)の仏教雑誌を中心に、数多くの資料が復刻され、さらに中国国内だけでなく日本における資料調査も進みつつある(*5)。大醒についても、筆者が発見した史料が示す姿は印順や東初の回想とは大きく異なっている。本論の第一の目的は、現在閲覧可能となった多くの歴史史料にもとづいて、日中戦争時期の大醒の活動を明らかにすることにある。
 本論の二つめの目的は、近年の日中戦争史研究で進められている占領地統治や対日協力政権の研究成果を取り入れ、従来の研究で用いられてきた「抗日」と「対日協力」の二元論に還元されない僧侶たちの活動を実態に即して明らかにすることにある(*6)。
 盧溝橋事件勃発後、日本は国際的な非難を回避し、また、アメリカとの貿易を継続するため、「戦争」ではなく「事変」の呼称を用いた。そして、日本軍による軍政をきらった日本政府が、中国人の政権を「内面指導」する間接統治システムをとったことによって、日本軍占領地に一定の「自主」的な空間が生まれた。このいわゆる「グレーゾーン」の研究は、中国人の対日協力者も「抵抗」と「従属」の狭間にある「自主」的活動を行うことができたと捉える点に特徴がある(*7)。日本の仏教史研究では、まだこの枠組を用いた研究はないが、キリスト教では松谷曄介が、日本の宗教政策が決して画一的なものではなく、華北や華中の地域ごと時期ごとに変遷や多様性があり、日本軍占領地の政治的な狭間で日中のキリスト者たちが一定程度の「自主」的な活動を可能にしていた事実を明らかにした(*8)。
 中国人僧侶の場合、キリスト教のような欧米の教団本部への報告書や海外の友人への手紙などといった資料はほとんど望めないが、大醒のように著作が多く、かつ日本人と交友関係があった僧侶を分析することで、日中戦争時期の中国人僧侶にも「抵抗」や「従属」といった二元論で説明がつかない活動の一端を明らかにできると考えている。
 日本における日中戦争時期の仏教史についての研究は、1970年代半ばの吉田久一の論考を出発点として、1990年代以降、木場明志や小島勝らが中心となり、主に教団資料を用いて伝統仏教教団と国家の関係や従軍布教、宣撫工作などといった戦争協力の歴史に焦点をあてた研究が進められてきた(*9)。2000年代以降には、中西直樹らを中心に精力的に教団関連資料が復刻され(*10)、さらに外交文書なども用いた研究もなされるようになった(*11)。ただし、これら一連の研究では中国側は客体として位置づけられ、中国人僧侶についての研究はほとんどなされていない(*12)。
 一方、中国における日本仏教教団の中国進出についての研究は、当初、日本の中国侵略における「文化侵略」の一環であり、何勁松『近代東亜仏教――以日本軍国主義侵略戦争為線索』(社会科学文献出版社、2002年)や『日本対中国的文化侵略――学者、文化人的侵華戦争』(崑崙出版社、2005年)などが先駆的な研究となる。仏教史研究においては、もともと戦争時期は停滞期とみなされ、最低限の言及しかされてこなかった(*13)。1990年以降、中台関係の改善により、日中戦争史研究において中国共産党の抗日活動だけでなく、蒋介石が率いた国民政府軍による抗日活動も評価されるようになった。蒋介石と懇意だった太虚についても、90年代後半以降、研究が可能になった。そして、太虚の仏教改革とともに抗日活動も評価され、太虚以外の僧侶の抗日活動も評価されるようになった。ただし、日本占領地の僧侶については、およそ「対日協力者」とみなされ、批判されるにしろ言及されないにしろ、本格的な研究対象とはなってこなかった。
 中国語圏において一つの画期ともいえる研究は、学愚の『仏教、暴力与民族主義――抗日戦争時期的中国仏教』(香港中文大学、2011年)である(*14)。その内容は、近代中国の社会変革の中で、太虚を中心とした僧侶たちが「国民」としての課題を突きつけられて改革運動を行い、その後、戒律と愛国の間で悩みつつ抗日に参加していった状況を描いている。学愚は著書の中で、日本軍占領地についても多くの僧侶に言及し、彼らの活動を一概に「対日協力」だと批判していない。しかし、日本占領地の資料が限られている中で、学愚は日本語資料をほとんど用いていないため、占領地の僧侶に対する分析は十分なものとはなっていない。結果として、中国政府とともに抗日活動に尽力する僧侶と、日本軍占領地で対日協力せざるをえなかった僧侶に二分し、対置するにとどまっている。本論との関係でいえば、戦前の大醒について若干の言及はあるものの、日中戦争開始後の大醒については全く言及がない(*15)。
 以上、日本及び中国における抗日戦争時期の中国人僧侶を研究する上で、大醒をとりあげる本論の意義を説明できたと思う。以下では、まず大醒個人の経歴と戦前の日本人僧侶との関わりについて確認し、後半で日中戦争時期の大醒の活動を明らかにしていこう。

一、大醒と日本人僧侶
(一)日本の厦門進出
(二)神田恵雲と大醒
(三)藤井草宣と大醒
二、日中戦争の勃発と中国人僧侶の抗日
(一)太虚の抗日活動と大醒の誓い
(二)大醒の日本批判と藤井草宣
三、閩南仏学院の「復興」と大醒
おわりに

(1)坂井田夕起子「中国人僧侶の見た近代日本仏教―大醒の『日本仏教視察記』を中心に」『近代仏教』第二六号、二〇一九年五月。その後、新たな資料や不足部分を加筆したものが、「近代日本仏教と中国人僧侶―太虚の弟子大醒を中心に」『東アジア仏教学術論集』第一〇号、東洋大学東洋学研究所、二〇二二年二月。
(2) 大醒法師遺著編輯委員会「編輯例言」『大醒法師遺著』海潮音社:台北、一九六三年、一頁。
(3)印順「行状」『大醒法師遺著』一頁。東初『中国仏教近代史』下巻、中華仏教文化館:台北、一九七四年、九〇三頁。インターネット上で大醒を紹介する文章の多くは東初の記述を参照しており、大醒の日本視察を「一九三六年」と記した東初の誤りもそのまま引用している。
(4)例えば、東初は日本の中支宗教大同連盟が主催した東亜仏教大会に鎮江代表として参加している(中支宗教大同連盟・中日文化協会・日華仏教連盟主弁『中華民国三十年東亜仏教大会紀要』発行年不明。
(5) 中国における代表的な仏教史料の復刻事業は、黄夏年主編『民国仏教期刊文献集成』中国書店:北京、二〇〇六年、同『民国仏教期刊文献集成補編』二〇〇七年、同『民国仏教期刊文献集成三編』二〇一三年、同『稀見民国仏教文献匯編』二〇〇八年等。日本の大学図書館や寺院に残る中国語の仏教雑誌については、坂井田夕起子「「支那通」僧侶・藤井草宣が収集した中国の仏教雑誌が意味するもの――日本の研究機関が所蔵する仏教資料との比較から」『中国研究月報』第七〇巻第一一号、二〇一六年一一月。同「藤井静宣(草宣)の活動と彼の収集した中国仏教雑誌・新聞について」三好章監修『真宗大谷派浄圓寺所蔵藤井静宣関連資料』あるむ、二〇一八年三月。同「藤井草宣所蔵民国佛教史料与太虚」王頌主編『北大佛学』第一輯、社会科学文献出版社:北京、二〇一八年一二月等。
(6) 日本においては、愛知大学を中心とした汪精衛(兆銘)政権に関する研究と、上海史研究会による占領地統治と対日協力政権の研究があり、近年のまとまった成果としては『対日協力政権とその周辺:自主・協力・抵抗』(愛知大学国研叢書、二〇一七年)、堀井弘一郎・木田隆文編『戦時上海グレーゾーン 溶融する「抵抗」と「協力」』(勉誠出版、二〇一七年)等がある。そして、二〇一九年には双方の研究会で活躍する関智英が『対日協力者の政治構想:日中戦争とその前後』(名古屋大学出版会)を上梓し、中国東北部から華北、華中、華南に至る占領地で活躍した中国知識人と日本人の複雑で多様な関わりを幅広くあきらかにし、高い評価を得た。
(7) 高綱博文「〈対日協力政権〉書評:愛知大学国際問題研究所編『対日協力政権とその周辺:自主・効力・抵抗』」『現代中国研究』第四一号、二〇一八年七月、三〇頁。
(8) 松谷曄介『日本の中国占領統治と宗教政策―日中キリスト者の協力と抵抗』明石書店、二〇二〇年。その後、松谷は王淼の博士論文の内容を踏まえて、著書の中の「自由空間」を「宗教的自由空間」としている(松谷曄介日本軍占領地における「宗教的自由空間」―華北中華基督教団を事例に―」『歴史評論』第八五六号、二〇二一年八月)。
(9) 藤井健志「戦前における仏教の東アジア布教――研究史の再検討」『近代仏教』日本近代仏教史研究会、第六号、一九九九年三月。木場明志は中国人研究者との共同研究にも積極的であり、木場明志・程舒偉編『植民地期満洲の宗教 : 日中両国の視点から語る』(柏書房、二〇〇七年)は貴重な成果となっている。
(10) 中西直樹編『仏教植民地布教史資料集成』(台湾編)三人社、二〇一六年。中西直樹・野世英水・大澤広嗣編『仏教植民地布教史資料集成』(満州諸地域編)三人社、二〇一六~二〇一七年等。
(11) 主な研究成果に新野和暢『皇道仏教と大陸布教――十五年戦争期の宗教と国家』社会評論社、二〇一四年。中西直樹『植民地台湾と日本仏教』三人社、二〇一六年。中西直樹・大澤広嗣編著『論集戦時下「日本仏教」の国際交流』不二出版、二〇一九年等。
(12) 例外は、末木文美士の「日本侵略下の中国仏教」『近代日本と仏教:近代日本の思想・再考Ⅱ』(トランスビュー、二〇〇四年)である。一九九九年二月から六月にかけて北京に滞在した末木は、北京国家図書館の資料を限定的ながら閲覧し、日中戦争時期の太虚や楽観といった中国人僧侶の活抗日動を紹介した。日中戦争時期の仏教史研究において、中国及び中国人僧侶が常に客体でしか存在しなかった状況にあって、末木の論考は先駆的であったが、その後に続く研究がなかった。
(13) 例えば、一九九〇年代の研究成果をまとめた陳兵・鄧子美『二十世紀中国仏教』(民族出版社、二〇〇〇年)では日中戦争時期についての直接的な言及は本文約四七〇頁中四頁しかない。
(14) 学愚の著作はもとが英語の博士論文であり、最初に出版されたのは英語の“Buddhism, war, and nationalism : Chinese monks in the struggle against Japanese aggressions, 1931-1945” (Routledge,New York & London, 2005)である。ただし、当時学愚が英語論文執筆に際して閲覧した中国語資料は編纂された二次的なものが多く、資料的に十分とはいえなかった。学愚は香港で職を得た後、復刻された中国語の一次資料にもとづいて前著を大幅に加筆修正し、『仏教、暴力与民族主義』をまとめた。
(15) 『仏教、暴力与民族主義』一二五~一二六頁。


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