映画『竜とそばかすの姫』考察 ~他者のまなざしという地獄~
映画『竜とそばかすの姫』はまなざしの物語です。
※個人の感想
ひとりの時、人間は自由です。
他者のまなざしは自由の危機であり、この自由の受難が人間の条件なのだとフランスの哲学者サルトルは言います。
『サルトルの知恵』という本をたまたま手に取ったことが、哲学とのファーストコンタクトでした。
『竜とそばかすの姫』にハマッたのも、サルトルの《まなざし》という思想を知ったからです。
劇場に通い、小説を読み、円盤を繰り返し再生しながら『竜とそばかすの姫』と《まなざし》について考えたことを、ここに記録しておきます。
⚠ネタバレあり
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①対人関係はまなざしの決闘
映画はベルのまなざしからはじまり、鈴のまなざしへと続きます。
数多の群衆に見られながら歌い上げるベルとはちがい、鈴は歌えません。
父親、クラスメイト、幼なじみ、鈴はまなざしを避けています。クラスメイトなど避けすぎたせいで怖いものになっていました。
対人関係は見るか見られるかの関係であり、まなざしの決闘です。
まなざしは視線ではなく、意識です。
SNSも、As同士のやりともまなざしを交わすことにほかならず、まなざしの決闘なのです。
②他者のまなざしという地獄
対人関係の手段は多様化しました。しかし、人間のまなざしの意識は技術の進化に追いついていないように思えます。
鈴はベルになると歌えました。
同じようなことが実際にあるのではないでしょうか。それは生身に比べてまなざしの意識が鈍くなっているからです。
ベルの大きな瞳の印象は強烈です。
しかし、生身のまなざしが最も怖いのです。
他者のまなざしは地獄です。
ベルは自らアンベイルされました。
鈴の姿で信頼を得るためでしたが、自身のまなざしを取り戻すためでもあったのです。
東京へ行ったのは最も怖いもの、生身のまなざし向けるためです。鈴によって独善者は暴かれて地獄に落ちました。
③差別のはじまりはまなざし
Asには抑圧された願望が反映されています。
鈴はルカちゃんのように他者のまなざしに耐えられるようになりたかった。ケイは強くて大きくて恐いものになりたかったのでしょう。
私のAsを作るとしたら、ヒト型、モンスター型、アニマル型…クジラのダンサーたちもAsなのですが、尾びれを動かして泳ぐというのも素敵ですね。
合唱隊のAsは女神のように神秘的です。
鈴の母親の友人でもある彼女たちには、この物語で2つの役割があります。
ひとつは鈴を見守ること。
しのぶくんと同様に彼女たちもベルの正体に気づいていました。鈴とまなざし交わし見守り続けていたからです。まなざしの決闘は必ずしも敵対することではありません。
もうひとつは、私(視聴者)に差別意識があると認めさせることです。
職場から鈴のもとへ駆けつける場面で、え!そんなお仕事なの!?という人と、あーぽいなーという人がいました。差別のはじまりはまなざしですが、私自身も例外ではなかったのです。
思い返してみると、物語のあちらこちらにこの意識はちりばめられています。
④まなざしの自覚と自己の生成
まなざしを失ったひとがいます。死者です。
生者から死者へのまなざしは一方的です。
生者からまなざしをそそぐことはできますが、死者からは返ってきません。
鈴は母親のまなざしを探し求めています。
しかし、母親とまなざしが交差することは二度とありません。だから別れは切なく悲しいのです。
Asとオリジンの身体感覚は共有されています。Asの胸の灯火は心の痛みです。
数多の灯火に照らされた鈴は、自分の中に母親を見つけました。
人間は自分と他者のまなざしを自覚し、世界と他者の中で自分を生成します。
鈴を生成したまなざしの中に母親は存在します。そう考えると、人間は誰ともサヨナラしないのかもしれません。
鈴は世界中に見られました。たくさんのまなざしが降り注ぎますが、きっと大丈夫です。
そばかす顔の鈴は歌いつづけます。世界の中でまなざしを交わしながら、歌姫は自分を生成していくことでしょう。
おわりに
雨の中、鈴とケイはまなざしを交わし抱擁します。
視線とまなざしはイコールではありませんが、瞳はまなざしを強く意識させるものです。
それを閉じてただ互いの存在を認め合う抱擁は、祝福、または愛というものかもしれません。
以上、勝手に感動した記録でした。
竜とそばかすの姫はいいぞ!
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