物語類型「幸福な王子」が苦手である。
*この記事には「俺の家の話」「ダークソウルⅢ」「鎌倉殿の13人」のネタバレが含まれています。
「俺の家の話」を最後まで見て、「『幸福な王子』だ」と気付いた。
好きだったり、苦手だったり、異様に感情移入してしまったり、何度見てもパブロフの犬のように泣いてしまう。
そんな特別な物語の型を持つ人も多いと思うが、自分にとって冷静に見ていられない、ゆえに鬼門である物語類型が「幸福な王子」だ。
どうりで毎回毎回ボロ泣きするわけだ。
「幸福な王子」は恵まれた生前を送り、死後金ピカの銅像になった王子が、燕に頼んで自分の自分の体の一部である宝石や金箔を貧しい人に届けてもらう。
王子の頼みを聞いたために南の国に渡る機会を逸した燕は弱って死んでしまい、見る影もなく見すぼらしい姿になった王子と共に焼却炉(確か)に捨てられる。
そういう話である。
一応、王子と燕は死後、神様の下で幸せになるのだが「もっと早く助けてやれよ」と子供の時、怒り気味につっこんだ記憶がある。
恵まれている(と思っている)人間がノブレス・オブ・リージュを発揮し、見返りを求めずに、限界を超えるまで負荷を背負い続け力尽きて死んでいく。彼らはそれが自分の義務だと信じているので何ひとつ泣き言を言わない。他の人間は誰もその献身を知らずに終わる。
以前「ダークソウルⅢ」の巨人ヨームのエピソードが苦手だと書いたことがある。
巨人を殺すことが出来るストームルーラーをヨームに託されたジークバルトが「友よ、約束を果しに来た」と現れる。ソウルシリーズの中でも屈指の熱いイベントだが、二人の友情に盛り上がる一方「罪の都の奴らなんて自業自得なんだから放っておけよ」と言いたくなる。
性格のいい人がその性格の良さゆえに負荷を背負わされても(もしくは自分から背負って)見返りを求めずに極限まで頑張る、というエピソードが凄く苦手だ。
ヨーム以外だと「進撃の巨人」のリヴァイ、「鎌倉殿の13人」の義時などがこの型だ。
義時が政子に殺された時は、むしろホッとした。殺さなければ一体どこまで行ってしまっていただろう。
寿一やリヴァイ、ヨームを見てもわかる通り、大抵の場合は誰かしら理解者がいる。そういう場合は見ていられるのだが、義時のように八重が死に、比奈がいなくなり、息子の泰時にも誤解されているとなると見ていてキツイ。
このタイプは大きかったり強かったり悪く見えたりするので周りは遠慮会釈なく負荷を背負わせる。
「まあ強いし、何も言わないしいいだろう」そう思われる。
加えて本人は異様に我慢強い。極限を超えてもなお耐えてしまうし、多くの場合耐えきってしまう。
とにかく真面目なので、やるとなると徹底してしまうのだ。
「俺の家の話」でユカが寿一を評して言ったように、「人に与えるのは得意だが人から何かを受け取るのが異様に下手で何も受け取らない」(なので「人魚姫」は別の型である。個人的には方向性が真逆だと思う)
本人も気遣いなどされず、与え続けていたほうが気楽なのだ。
他人がとやかく言うことではないとは思う……思うのだが、そうは思っても見ているとモヤモヤする。「大丈夫か?」と過剰な気遣いを感じてしまう。
この型が主人公で、ドストレートに死んでいく様だけを描いた話は余り思いつかないのだけれど、「俺の家の話」は久々にそういう話だった。
どう考えても何の救いもない類型の話を、あそこまで明るい、笑いと希望に満ちた話に出来るクドカンの力量に改めて驚嘆した。