創作に用のない人に、創作が「not for you」と言えるようになって欲しい。
↑の記事の派生話題。
先日「未成年側から成年側に迫る構図は、『成年側はちゃんと拒絶している』というエクスキューズを成り立たせるためだ。そういうエクスキューズの下で未成年を性的搾取している」と特定の漫画を上げている記事を見かけた。
「未成年(女子中高生)が成年の男に思慕を抱く」もしくは「成年男が未成年女子に恋心を抱いて葛藤する」という構図はどちらかと言うと女性向けのコンテンツで多く見かける。
「足長おじさん」構図は、「ガラスの仮面」からの鉄板ネタだし、実際「これは恋の話」も女性向けの雑誌に掲載された作品だ。
「成年男が一線を引こうとするために、未成年女子から揺さぶりをかける」
そういう構図があたかも昨日今日出てきたかのように言うほど創作に興味がない人にあれこれ言われるのは、さすがにもう何が何なんだかと思ってしまう。
思ってしまうが、作品側からすると絡まれた場合、どうしようもない。
実際に一年前に桐野夏生がそういうリスクへの懸念を話している。
明らかに注目狙いの言説には、注目というインセンティブを与えないようにするしかない。
自分も創作を愛する読み手として、炎上に加担して「こうすれば注目される」という成功体験を与えないように気をつけようと思った。
注目狙いの言いがかりに対してはそういう対応になる。
だがそれ以外に先日の「ゴールデンカムイ」批判増田の記事の中でも、
子供ばかりを狙う上エ地のエピソードについてこう書いている。
増田とは違う人間である自分の読み方だと「ゴールデンカムイ」という物語に眠る軸のひとつは「狂った父性の抑圧からどう抜け出すか」だと考えており、上エ地のエピソードもその「抑圧の痛み」を表していると思う。
物語上の文脈で読むと、上エ地のエピソードは「父親に抑圧されていた子供のころの自分を子供に投影して殺す(消す)ことで、自我を保っている」と読める。
自分の読み方が正しいというわけでもないし(読み方に善悪是非はない)、仮にそうだからと言って上エ地は許されるわけでもない。(実際、物語上も許されていないし、悪として描写されている)
ただ創作は「イメージの連続体から積み上がった文脈を通してさらにイメージが生まれる」という作りで出来ているので(人間の深層意識に近い)、ひとつの描写自体を抜き出して批判するのを見ると、「創作は現実とは違い、読み手が描写を記号的に認識するとは限らない」ということが分かっていないのではないかと疑いを持ってしまう。
「それは分かった上で、描写そのものがやはり問題ではないか」と言うのであれば、作品全体(文脈)を俯瞰した上での批判になるはずだ。(その描写は作品の文脈上から生み出されたイメージだから。)
「狂った父性の抑圧下にある」という痛みがない読み手は、事象を記号的にしか見ない。自分の痛みがないことを読み取れないのは誰しもそうなので、それが間違っているわけではない。
ただ「自分の認識においては記号的にしか見えない描写を取り上げ、自分の認識が絶対的なものだ」という発想で問題にすることには強い疑問を覚える。
創作において「文脈(個人のイメージ)から生まれた描写を、記号的な認識(社会的なコンセンサス)を重視して問題視する」という行為自体が、「社会と個人」の関係性において問題だと自分は思う。(繰り返しだけれど、文脈を踏まえたうえでの批判は構わないと思う)
以前であれば「自分に合わない、not for meだな」と思ったら、読むのを止めるだけだった。
ところが今は「ネガティブな感想」も、人と共有することで注目を集められる価値を持つ時代になってしまった。
「個人のイメージから生まれた描写を、本来はそのイメージに特に用がない人間による社会的コンセンサスのみを用いた解釈」が力を持つ時代になってしまっている。
本来個人的な領域を、イメージの力を以て拡大するためのものである創作がこんなことをされては、ひとたまりもない。
創作を読む、批判するときはあくまで「私」の認識で行うべきだ、と言うのはそのためだ。
「これは恋のはなし」も創作なので、十歳の少女が三十一歳の男に恋愛感情を持っても特に気にならない。
ただ今後は、こういう設定の話を出すのは厳しくなる……というより書き手側が躊躇するのではないか、と思ってしまう。
「これは恋のはなし」は年齢差が主題なのではなく、「同じ痛みを持つ人間同士が出会い、お互いの存在に助けられて自己回復すること」がいかに奇跡的なことであるか。その希有さを表すために、ハードルとして年齢差が設けられているのではないかというのが自分の考えだ。
「年齢差」は目的ではなく「方法」なのだ。
真一と遥は、内面的な年齢差はほぼない。
内面的な年齢差がほぼなくお互いを必要としているのは明確なのに、外形的な年齢差(客観的な認識)によってその回復が妨げられる、という構図が本筋なのだ。
創作は大抵こういう風に、外形的(社会・客観的)なシステムと個人の内面的なシステムの相克が描かれている。創作が外形的なシステムとは別の動きをする、内面的なシステムだからだ。
「創作(内面的・個人的システム)が社会に与える影響」がなくなったら、どうなるか。
「真昼の暗黒」みたいな世界になる。
外部(社会)システムと内面(個人)システムが一体化した世界だ。(全体主義の最終的な目的はこれではないか、とハンナ・アーレントが指摘していたが、「真昼の暗黒」や文化大革命を見ると恐らくそうだろうと思う)
自分には端的に言って地獄に見える。
「それは恋のはなし」を読んで、「犬どもの生活」を思い出した。
この二作品は両方とも「成年の男が十歳の少女と出会い、十年近くに渡る交流の末に結ばれる」話だ。
両方の作品自体を比べた場合、自分はあらゆる意味で「犬どもの生活」のほうが優れていると思う。
ただそれは、こういう設定を商業誌でやることに限界があるからではないかとも思った。
商業誌であればくどいほど「男は少女を異性としては見ていない」ということを繰り返さなければならない。(と「これは恋のはなし」を読んで感じた。)
「犬どもの生活」は、
・男(奥谷)が裏の世界で生きてきた背景を漂わせている。
・自分(主人公もも乃)を捨てた母親の夫である。
・奥谷の性的指向が男
・もも乃にとって初恋の相手である茜を「犬」にしていた。
・二人が父娘である可能性(これは穿ちすぎかもしれない)
と年齢差以外にもハードルがてんこ盛りだ。
そして最後は「結ばれる」と言っても、「支配ー被支配」の鎖で男をつなぐだけであることを示唆している。
限られた世界で限られた人に向かって書くしかない話だが、今の時代だと何かのはずみで「not for you」の人に届いてしまうかもしれない。
そのリスクヘッジをしながら書く(作る)のは、「社会的システムから離れた(個人のためだけの)内的システムを残す」という創作の意義を考えると本末転倒だ。
創作は徐々に「限られた場所で限られた人に向けて書かれるもの」になっていくのではと思う。
むしろそうならないと外的(社会)システムに対抗、もしくは相対化するような創作を書く人がいなくなってしまうのではないか、という危機感がある。
現代は無作為に作品を公開するリスクが高いので、多くの人に求められる創作品ほど読者が「not for me」と言うのではなく「創作のほうからnot for youと言われるようになる」のではないか。
個人的には桐野夏生ほど実績も実力もある作家が
こういう創作を読む前提のような言わずもがなのことを言わなければならないくらいなら、そういう世界になって欲しいとすら思う。
どこまでも個人を一元管理しようとする社会システムにはうんざりするが、そういうものからいかに個人的な領域を守っていくかが今後重要な課題になっていくのかなと思った。
*余談
「犬どもの生活」を読み返して気付いたが、奥谷はもも乃以外には一人称が「俺」普通の話し方をするが、もも乃にだけ一人称が「奥谷」のしゃちこばった喋りになる。こういうところが凄い。(小並感)
*余談2
「ゴールデンカムイ」を無料掲載でいっき読みした感想。
上記増田は、自分なんかよりずっと「ゴールデンカムイ」が好きで応援していたのだと思う。
だから余計に「私」で語れよと思ってしまうが、そこから先は余計なお世話なので割愛。
*余談3
以下は「創作が社会に与える影響」に対する所見。
ネガティブな感情なので注意。(読まなくて大丈夫なやつ)
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