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【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑤

読者の皆様へ
『浅葱色の翼』は、新選組隊士・斎藤一と、日本の空を初めて飛んだパイロット・徳川好敏の物語です。小説と取材レポートを交互に書き進めており、基本的に偶数回が小説パート、奇数回が取材レポートとなっています。
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取材レポート

突然の災厄

博物館の看守をしていた頃の斎藤一と、少年時代の徳川好敏。この2人は出会っていてもおかしくない、というのはすでに触れたとおりである。

では、少年期以降の好敏はどのような人生を送ったのであろうか。

すでに紹介している資料を読んでゆくと、徳川好敏は生まれこそ「清水徳川家の御曹司」であったものの、いくつもの困難を乗り越え人生を歩んでいることがわかる。


まず最初に訪れた困難は、明治30年のこと。
好敏の実父であり7代目当主の徳川篤守あつもりが、「爵位を返上し華族の礼遇を停止される」という事件が起きたのである。

篤守の性格は「天衣無縫で人を疑わない」というものだったようで、徳川家の資産を付け狙う者から徹底的に利用されてしまったという。

徳川一門でもっとも裕福と言われていた資産は次々に蝕まれ、頼まれるままに手形や借用証文に裏書をした結果、膨大な負債を抱えてしまう。挙句の果てには、さまざまなトラブルに巻き込まれ訴訟を起こされるに至ったそうだ。

篤守は一切の弁解をせず、爵位を返上し広大な屋敷を処分してしまった。華族の地位を捨て一介の市民になることについて本人は実にあっさりとしていたそうだが、徳川家一門としては大事件である。

そして「徳川家が訴訟を起こされて爵位を返上」というスキャンダルは心無いマスコミが飛びつくような話でもあった。新聞や雑誌には根も葉もない憶測記事が飛び交い、さらに徳川家一門からも激しい非難・叱責を浴びる。
まだ少年だった好敏にとって大きなショックであったことは想像に難くない。

実は後年、好敏は日本の航空業界の発展に寄与したことが評価され男爵の爵位を授けられているのだが、これを好敏は心から喜び父の墓前に報告したという。人生を通じて心に暗い影を落とすほど、「爵位の返上」は大きな事件だったのだ。


ちなみにこの事件が起きたとき、好敏は13歳。「東京陸軍地方幼年学校」の生徒であった。当時、華族の子弟は陸海軍の将校養成学校に入学するのが一つの慣例となっていたそうで、好敏は13歳のときに「終生、軍人として生きる」ことが決定したことになる。

「明治・大正・昭和という時代に軍人として生きる」。この時代に何が起きたか知っている我々からすると、これが平穏な人生でなかったことは容易に想像がつくだろう。

その話はもう少し後で触れることにするが、ともかく好敏にとっての最初の受難が、「爵位返上事件」であったことは間違いないだろう。

現在でいう中学生の頃に、家族に関する憶測記事が新聞や雑誌に載り、世間の好奇の目にさらされるというのは、どれほどの苦痛だっただろうか。

好敏がこの苦難をどう乗り越えたのかという記録は残っていないけれど、もし想像が許されるのなら「誰かが、何かが支えになってくれた」ことを願いたい。


⑥へ続く


ここまでの話へのリンク

浅葱色の翼①
浅葱色の翼②
浅葱色の翼③
浅葱色の翼④

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