二宮直仁

紙媒体歴18年、現在はwebメディアに軸足を移している編集者です。これまでもnoteはやっていたのですが、仕事を離れ趣味としてnoteをやりたくて、ペンネームでスタートしました。 要約すれば「文章を書くこと、バイクで旅をすることが好きな中年男性」です。

二宮直仁

紙媒体歴18年、現在はwebメディアに軸足を移している編集者です。これまでもnoteはやっていたのですが、仕事を離れ趣味としてnoteをやりたくて、ペンネームでスタートしました。 要約すれば「文章を書くこと、バイクで旅をすることが好きな中年男性」です。

最近の記事

食文化を「ネタ扱い」する時代はもう終わったと思う

いきなりですが、Youtubeなどを見ていて、以下のようなチャンネルを見つけたと仮定しましょう。実際にあるかどうかわかりませんが、まずは想像してみてください。 それは海外のチャンネルで、海外のYoutuberが毎回ワチャワチャと遊んだり騒いだりするような企画を多くやっています。 そして、とある動画のテーマは… 「日本のすっげー臭い食い物を食べてみた!!」というもの。 取り上げられていたのは、日本の「ぬか漬け」でした。 コンビニにあるようなパック詰めのものではなく、ちゃ

    • 『ゴジラ -1.0』の登場人物設定に関する違和感

      昨年末に「ゴジラ -1.0」を観ました。 (以下、ストーリーに触れる部分もあるかと思うので、これから観る方や知りたくない方はお戻りください) 話題作かつ高評価多数とのことで、かなり期待度が高かったのですが…。 僕としての感想は「惜しい」の一言に尽きます。 その惜しさの最大の理由は、主人公のキャラクター設定。ここにどうにも違和感があり、感情移入の妨げになってしまいました。 神木隆之介演じる敷島浩一(主人公)は、特攻隊の生き残りパイロット。映画冒頭は、特攻のための爆弾を抱い

      • Youtubeデビューで「見るとやるでは大違い」を痛感する

        これを書いているのは、2023年12月31日。 今年のnote活動について総括しようかと思い、パソコンに向かっています。 2023年はnoteに限らず、創作活動の幅を広げた1年でした。中でも自分にとってかなり大きかった出来事が「Youtubeデビュー」です。 「愛車、SR400で行くツーリング風景を動画にまとめて公開したい」という漠然とした思いは、何年も前からずっと感じていたことでした。 しかし「Youtube自体がオワコンだのなんだのと言われている時代だよ? 今さら始

        • 【キャンプ道具紹介】UCOキャンドルランタン

          キャンプシーズン真っ只中になってきたので、アイテムレビューで一本書こうかなと思います。 紹介するのは「UCO(ユーコと読むそうです)」のキャンドルランタン。 ちなみに僕は、まったくキャンプガチ勢ではないし、キャンプに「映え」のようなものはほとんど求めていません。 「どうせなら安い道具でキャンプできた方がいいじゃん」「わざわざ面倒なことするより、ラクに過ごす方がいいじゃん」と思っているタイプです。 パチもん商品、もとい「ブランド品をオマージュした廉価版商品」も普通に使い

          あらためて筋肉少女帯を聴いている

          僕の中高生時代は、筋肉少女帯と大槻ケンヂ氏とともにありました。 筋肉少女帯、略して「筋少」を初めて知ったのは、友達が聴かせてくれたカセットテープ。 バカみたいな歌があるぜといって聴かせてくれたそれは、ボーカルが甲高い声で「ボヨヨーン!」と連呼するものでした。あまりのバカバカしさに、友達と腹を抱えて笑ったのを覚えています。 その奇妙な曲を演奏していたのは「筋肉少女帯」という、名前も奇妙なバンド。最初は「筋肉少女隊」だと思ったのですが、そうではなく「筋肉少女帯」だという誰し

          あらためて筋肉少女帯を聴いている

          ツーリング+note執筆という楽しみ方

          今日もいつものとおり、ウエストバッグにワイヤレスキーボードを入れてツーリングに来ました。 現在いるのは、箱根の大観山にある「アネスト岩田スカイラウンジ」。箱根ターンパイクの峠にあるレストハウスの2階です。 大観山のレストハウスには1階と2階があり、1階部分は自由に出入りできるのですが、2階のラウンジを利用するには飲み物などの注文をする必要があります。 といっても、ドリンクバーの料金は500円。500円で芦ノ湖を望む絶景を眺めながら(席にもよりますが…)ゆったりとした時間

          ツーリング+note執筆という楽しみ方

          過去の創作記事の加筆修正をしました

          ずっと前に書いた、歴史小説と取材レポートを組み合わせた作品『浅葱色の翼』を加筆修正し、新たに公開してみました。 当初は、既存の記事を編集するだけだったのですが、公開日時が古いままだと埋もれてしまって目につかないかもしれない…と思い、すべて新規記事として新たに公開しました。 全12話+あとがき、あらためて読み直して加筆修正をしているので、自分としても再投稿して良かったと思います。 『浅葱色の翼』は、新選組隊士の斎藤一と、日本の空を初めて飛んだ飛行機操縦士、徳川好敏の物語。

          過去の創作記事の加筆修正をしました

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼:あとがき

          『浅葱色の翼』を読んでいただき、誠にありがとうございました。1話から12話まですべて読んでくれた人は相当少ないだろうとは思いますが、たとえ1話だけだったとしても、読んでいただいた人には感謝しかありません。本当にありがとうございました。 この物語の構想(斎藤一は飛行機を見たかもしれないという仮説)は10年くらい前に気づいたもので、「いつか一つの物語としてまとめることができたら」と考えていました。 当初は徳川好敏との接点があるなど知る由もなく、単純に「斎藤一は飛行機を見たかも

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼:あとがき

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑫

          大正元年(1912年)10月27日、日曜日の早朝。 学校は休みではあったが、八重子は早朝から起きて出かける準備をしていた。何せ今日は「帝都訪問飛行」の日である。 故郷の会津では自動車すら珍しかったというのに、今日は空を飛ぶ乗り物が見られるというのだから、科学技術の進歩にはちょっと恐ろしさすら感じてしまう。今度故郷に帰るときには、ぜひ飛行機のことも土産話にしよう。 そんなことを考えながら1階へと降りていくと、縁側で「ご隠居様」が静かに庭を見ている姿が目に入った。 笑顔でない

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑫

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑪

          取材レポート東京上空の大飛行 フランスに旅立った好敏は、飛行技術を習得し、代々木練兵場にて日本初飛行を成し遂げる。これについては、物語の冒頭で触れた。 明治43年12月19日早朝。 現在の代々木公園にて、高度70m、3分間の飛行を行った。これが公式に記録されている「日本初飛行」である。 はたして斎藤一がこれを見たかどうかはわからないけれど、少なくともこのときに斎藤一は存命中であり、東京在住だったことは間違いない。 そして「徳川好敏が東京上空を飛んだ」のも、この1回だけ

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑪

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑩

          明治43年(1910年)日露戦争から無事に帰還したことは手紙では伝えていたが、その後は何かと慌ただしく、顔を見せぬまま5年も経ってしまった。 さすがに手ぶらで訪れるのははばかられるため手土産をと思ったのだが、はたしてあの人は何を喜ぶのだろうか。いや、そもそも人からの手土産に喜ぶことがあるのだろうか。 いくら考えてもわからないので、好敏は和菓子屋で大福を山ほど買った。あの人の家は女学生向けの下宿でもあるため、甘いものを喜ぶ人は多いはずだ。 玄関に出てきた藤田夫人は、以前のよ

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑩

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑨

          取材レポート空への道を歩む 日露戦争は、それまでの日本が経験した戦争とはまったく異なる規模であった。戦闘に参加した日本の軍人と軍属の総数は、戦地と後方勤務を合わせると108万人超。戦死者は約84,000人であり、日清戦争時の戦死者と比較すると、およそ10倍だという。 この激戦から好敏が「生きて戻った」ことは、日本の航空史にとって大きな意味があったといえる。 日露戦争をくぐり抜けた後、好敏は陸軍の「砲工学校高等科課程」に進んだ。ちなみにこの学校は陸軍における技術教育の最高

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑨

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑧

          明治37年(1904年)「ごめんください」 玄関先で声をかけ、お手本のような「気を付け」の姿勢で待つ。藤田夫人は「はぁい」と、想像とは少し違う元気な声とともに玄関先に現れた。 まさか軍服の将校が立っているとは思わなかったのだろう。藤田夫人は驚いて、はっと身を硬直させた。 「幼い頃、教育博物館で藤田さんにお世話になった徳川と申します。夜分に恐れ入りますが、藤田さんに大切なご挨拶があり罷り越しました」 好敏は、支給されたばかりの真新しい軍服に身を包み、その肩には少尉の階級

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑧

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑦

          取材レポート従軍、そして斎藤一との共通点 博物館の看守、藤田五郎と好敏少年の間に会話があったとすると…。 いずれ好敏は、「藤田五郎=新選組の斎藤一」だと知ったのではないだろうか。そんな空想が膨らむ。 もしそうだとしたら、軍人として人生を歩むことになった好敏にとって、「斎藤一との出会い」は大きな意味を持つような気がする。 明治時代には日清戦争・日露戦争という大きな戦争が2つもあったが、はたして日清・日露戦争は好敏の人生においていつ頃の出来事だったのか。 結論から言うと、

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑦

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑥

          明治31年(1891年)久々に自由の身となって校門を出た学生たちは、皆笑顔にあふれている。 数日間とはいえ厳しい訓練から解放され、我が家で正月を過ごせるのだから嬉しくないはずがない。しかし、好敏の気持ちは憂鬱であった。 市ヶ谷に設立された陸軍地方幼年学校は、「学校」とは名ばかりの簡素なものであった。学舎として割り当てられたのは兵舎の一つで、1階が自習室、2階が寝室と講堂。それがこの学校のすべてであった。ここで学生たちは、厳しい訓練と勉強の日々を送っていた。 普段は学校の敷

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑥

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑤

          取材レポート突然の災厄 博物館の看守をしていた頃の斎藤一と、少年時代の徳川好敏。この2人は出会っていてもおかしくない、というのはすでに触れたとおりである。 では、少年期以降の好敏はどのような人生を送ったのであろうか。 すでに紹介している資料を読んでゆくと、徳川好敏は生まれこそ「清水徳川家の御曹司」であったものの、いくつもの困難を乗り越え人生を歩んでいることがわかる。 まず最初に訪れた困難は、明治30年のこと。 好敏の実父であり7代目当主の徳川篤守が、「爵位を返上し華族

          【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑤