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【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑨

読者の皆様へ
『浅葱色の翼』は、新選組隊士・斎藤一と、日本の空を初めて飛んだパイロット・徳川好敏の物語です。小説と取材レポートを交互に書き進めており、基本的に偶数回が小説パート、奇数回が取材レポートとなっています。
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取材レポート

空への道を歩む

日露戦争は、それまでの日本が経験した戦争とはまったく異なる規模であった。戦闘に参加した日本の軍人と軍属の総数は、戦地と後方勤務を合わせると108万人超。戦死者は約84,000人であり、日清戦争時の戦死者と比較すると、およそ10倍だという。

この激戦から好敏が「生きて戻った」ことは、日本の航空史にとって大きな意味があったといえる。


日露戦争をくぐり抜けた後、好敏は陸軍の「砲工学校高等科課程」に進んだ。ちなみにこの学校は陸軍における技術教育の最高権威だったというから、好敏がいかに文武に優秀であったかがうかがえるのだが、それはさておき。

好敏の卒業直前、陸軍の気球隊(航空機の研究も担っている)が人的強化を図るために転属希望者を募ったという。これが、好敏の航空人生を決定づけるものとなった。

そもそも好敏は、自ら工兵という兵科を志望するほど科学技術に関心があった人であり、「航空機の研究」というテーマに真っ先に手を挙げたわけである。おそらく情報将校として戦った日露戦争でも、「空からの偵察」ができればどれほど有効であったか、身をもって感じたのではないだろうか。

好敏はその後、日本初の航空機研究機関である「軍用気球研究会」へと移る。名前こそ「気球研究会」ではあるが、その任務は航空機の研究であり、ここで好敏は先輩の日野熊蔵大尉とともに、ヨーロッパへ派遣されることになるのだ。

主な任務は「操縦技術の習得」と「飛行機の購入」の二つ。

好敏の人生を調べていると、このあたりで自分も大いにワクワクしていることに気づく。何と言っても、日本初の飛行機操縦士になるのだ。現地で買い付けた飛行機も、日本初上陸となる機体である。間違いなく、日本の航空史に刻まれることになるだろう。

プレッシャーはとてつもなく大きいものであっただろうけれど、おそらく好敏が胸に抱いていたのは期待の方が大きかったのではないだろうか。

好敏はフランスの「アンリ・ファルマン飛行学校」へと入学し、ここで飛行技術を習得することになったという。


これは少々余談になるけれど、飛行学校時代の好敏に私としては大好きなエピソードがある。それは「飛行学校までの道のりをバイクで通っていた」というもの。好敏は当初、他の訓練生と同様に乗り合い馬車で学校まで通っていたそうだ。しかし飛行訓練は先着順で行うことになっていたため、早く乗りたい好敏はもどかしくてならない。

そこで好敏はバイクを購入し、要は「バイク通学」に切り替えた。毎朝真っ先に学校に到着し、一番最初に訓練飛行をしていたというのだ。

実は好敏は、日本にいた頃(ヨーロッパ派遣が決まった頃)からバイクに乗っていたらしい。日本では相当に珍しかった時代だっただろうだから、かなりの「バイク好き」だったのではないだろうか。

バイクや飛行機など、機械や乗り物が大好きだった好敏の人間らしい表情が見えてきてほほえましい。さらに余談をさせてもらえば、「バイク好き」という部分では私も同じであり、大いに親近感を覚えるエピソードであった。


話を元に戻そう。

好敏はこの「アンリ・ファルマン飛行学校」で飛行技術を習得。フランスのファルマン式、ドイツのグラーデ式という2機の飛行機を購入し、帰国の途につくことになった。そしてこの2機の飛行機が、明治43年の「日本初飛行」を成し遂げることになるのだ。

ちなみにこの2機のうち、ファルマン式については「実機」が現存しており、埼玉県の「所沢航空発祥記念館」に展示されている。

1910年式のアンリ・ファルマン機。代々木練兵場にて日本初飛行を成し遂げた機体である

今回の物語を執筆するにあたりさまざまな場所へ取材に訪れたけれど、もっとも驚いたのはこの「100年以上前の実機が残っていること」だったかもしれない。

このファルマン機は、日本初飛行の後に所沢飛行場で訓練などに使用され、第一線を退いた後は施設内に保管。終戦時はアメリカに接収されたものの、1960年に返還されて現在に至るという。

黎明期の飛行機はエンジントラブルも多く、また気象条件にも繊細だったため墜落事故は決して珍しくはなかったと聞く。そんな時代に「機体を失うような事故もなく使用され続けた」というのは、日本初飛行に並ぶほど偉大なエピソードであるような気がする。

後の時代、好敏は飛行学校の校長を務めるのだが、校長専用機を100時間ほど飛ばすとエンジンを分解させ、損耗度を調査させたという。そして訓練生たちが乗っている飛行機のエンジンと損耗度を比較し「皆の飛び方は乱暴すぎる。もっと発動機を愛護して慎重に飛べ」と注意したそうだ。

ファルマン機が現存できた理由には、好敏のこういった几帳面な性格によるところも大きいのではないだろうか。

所沢の航空発祥記念館には、好敏ゆかりの品がいろいろと展示されている。どれも状態が良く、これらの品々からも好敏の「物を大切にする姿勢」が伝わってきた。


好敏が愛用したという飛行帽。実際に使われていたとは思えないほど状態が良い
身の回りの品を入れたという軍用行李。こちらも丁寧に使われていたことを感じさせる


そして、航空発祥記念館のエントランスには、好敏がファルマン機をベースに設計した「会式一号機」が展示されている。

日本初の国産軍用機となった会式一号機。こちらは実機が現存していないためレプリカだが、そもそもファルマン機が残っていることの方が異例といえるだろう

好敏は、飛行機の信頼性がまだまだ心もとなかった黎明期時代に、パイロットとして数えきれないほどの飛行をこなした。二度ほど不時着する事故も経験しているのだが、大きな怪我をすることなく生還している。

第二次大戦時には年齢的に最前線に出ることはなかったため、「敵機との空中戦を繰り広げた」といった戦記はないものの、激しい戦乱・動乱の時代を生き抜いて昭和38年に78歳で没している。


任務に対して真面目で、几帳面で、命を懸けた任務から何度となく生還し、天寿を全うする。

これもまた、斎藤一と共通する要素だ。

好敏が日露戦争で諜報活動に従事したということも含めると、どうも好敏が斎藤一の「教え子」のような気がしてならない。


⑩へ続く


ここまでの話へのリンク

浅葱色の翼①
浅葱色の翼②
浅葱色の翼③
浅葱色の翼④
浅葱色の翼⑤
浅葱色の翼⑥
浅葱色の翼⑦
浅葱色の翼⑧

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