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【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑩

読者の皆様へ
『浅葱色の翼』は、新選組隊士・斎藤一と、日本の空を初めて飛んだパイロット・徳川好敏の物語です。小説と取材レポートを交互に書き進めており、基本的に偶数回が小説パート、奇数回が取材レポートとなっています。
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明治43年(1910年)

日露戦争から無事に帰還したことは手紙では伝えていたが、その後は何かと慌ただしく、顔を見せぬまま5年も経ってしまった。

さすがに手ぶらで訪れるのははばかられるため手土産をと思ったのだが、はたしてあの人は何を喜ぶのだろうか。いや、そもそも人からの手土産に喜ぶことがあるのだろうか。
いくら考えてもわからないので、好敏は和菓子屋で大福を山ほど買った。あの人の家は女学生向けの下宿でもあるため、甘いものを喜ぶ人は多いはずだ。

玄関に出てきた藤田夫人は、以前のように身をこわばらせることなく「これはこれは、お久しぶりでございます」と笑顔を向けてくれた。手土産についても大そう喜んで、以前と同じように来訪の意図を詮索するようなことなく、客間へと通してくれた。


「貴公…どうやら苦労したようだな。先の戦では」

好敏の前に座った藤田五郎、いや斎藤一は、じっと好敏の顔を見つめてつぶやいた。

いきなりそんなことを言われるとは思わず、好敏は少々たじろいだ。

「いえ、華々しい戦果は何も上げておりません。二〇三高地の戦いには参加していませんし、バルチック艦隊も見てはおりません。戦地で風土病に罹り、内地で療養しているうちにすべてが終わっていたようなものです」

正直な気持ちを伝えると、斎藤は目を細めて好敏の顔を見つめた。

「ふむ。誰かから武勇伝でもせがまれたときにはそう答えるといいだろう。ただ私にはわかる。その面構えを見れば一目瞭然だ。
貴公、ずいぶんと難しい務めも果たしてきたな」

斎藤は姿勢を正し、頭を下げて「よく戻られました」と言った。



「戦場ではしばしば、藤田さんならどうするだろうかと考えました」

この言葉には嘘はない。
あの戦争で好敏がどのような任務についていたのか詳しく話すわけにはいかないが、間諜としての任務に就くときに考えていたのはいつも「新選組の斎藤一であればどうするだろう」ということだった。

斎藤は、そんな好敏の心の中を感じ取ったようにうなづいてくれた。好敏は、語れないところまでをすべて察してくれたことに感謝した。

「私は近々、飛行機の操縦技術を修得するためフランスに行くことになりました。機体の買付も行います。アメリカやヨーロッパでは、どんどん飛行機が普及しているとのこと。これから飛行機の重要度はますます上がっていくでしょう。いよいよ日本の空にも飛行機が舞う時代が来ます」

「子供の頃、貴公がそのような話をしたことがあったな」

「はい。藤田さんは『自分が生きている間には見られないだろう』とおっしゃっていましたが、そんなことはありません。操縦技術の修得と機体の買付・輸送にどのくらいの時間がかかるはわかりませんが、きっと1~2年のうちには戻ります。そのときには…」

好敏が大いなる夢を語ろうとしていたとき。
斎藤は思いもよらぬ言葉でさえぎった。



「貴公、もうこの老いぼれのことは忘れよ」



好敏は聞き間違えでもしたのかと思い、呆けた顔で「今、なんとおっしゃいましたか」と尋ねてしまった。

「もうこの老いぼれのことは忘れよ、と言った。

私もさすがに、老いさらばえた。体のあちこちにガタが来ておるし、どうも最近は胃も痛むようになってきてな。

貴公が飛行機とやらの操縦を覚えて帰ってきたときに、私は死んでおるかもしれん。こんな老いぼれの生き死ににかかずりあっていたら、貴公の晴れ舞台に水を差すわ。

もし生きていたときは、群衆に紛れて貴公が空を飛ぶ姿を見に行こう。死んでいたら、草葉の陰から見よう」

唖然とする好敏とは対照的に、斎藤は笑顔だった。

「その面構えを見れば、もう貴公に教えられることは何もないとわかるわ。御一新から40年以上も経ち、人が空を飛ぼうかという時代に、もはや新選組でもあるまい。今日を限りに、もう忘れるがよい」

「そんな…あまりに突然な」

「人と人との別れは、案外こういうものだ。会津で土方と別れたときも、私は残ると言い、土方はそうかと言っただけでな。お互い、今生の別れと知りつつ、慌ただしく言葉を交わしただけだった。

土方は、人一倍の臆病者である私を知る数少ない人間だった。気が合うような合わぬような奇妙な関係だったが、お互いを認め合っていたのは確かだった。そんな土方との別れも、実にあっさりとしたものだった。

そして…。

貴公は知る由もないだろうが、貴公はな、この老いぼれの心に刺さっていた棘を、一つ取り去ってくれたのだ。もう思い残すことはない。このあたりが別れ時よ」


「しかし…」と好敏が食い下がっても、斎藤はそれを許さなかった。

「もう一度言う。古い時代の老いぼれなど忘れて、任務をはたせ」
それだけ言うと、斎藤は何の未練もなく席を立った。

これが本当に今生の別れなのだろうか。あまりに突然のことで動転しているが、無言のまま別れるわけにはいかない。何か言わなくては。
とっさに好敏が叫んだのは、この人から教えられたことのすべてであった。



「これからも、私は空の浅葱色を見ます。
浅葱色とともに任務に臨みます」



斎藤は振り向きはしなかったので顔は見えなかったが、きっと満足げな微笑をたたえている。好敏にはそれがはっきりとわかった。


⑪へ続く


ここまでの話へのリンク

浅葱色の翼①
浅葱色の翼②
浅葱色の翼③
浅葱色の翼④
浅葱色の翼⑤
浅葱色の翼⑥
浅葱色の翼⑦
浅葱色の翼⑧
浅葱色の翼⑨

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