【レポート×歴史小説】浅葱色の翼⑧
明治37年(1904年)
「ごめんください」
玄関先で声をかけ、お手本のような「気を付け」の姿勢で待つ。藤田夫人は「はぁい」と、想像とは少し違う元気な声とともに玄関先に現れた。
まさか軍服の将校が立っているとは思わなかったのだろう。藤田夫人は驚いて、はっと身を硬直させた。
「幼い頃、教育博物館で藤田さんにお世話になった徳川と申します。夜分に恐れ入りますが、藤田さんに大切なご挨拶があり罷り越しました」
好敏は、支給されたばかりの真新しい軍服に身を包み、その肩には少尉の階級章が輝いていた。血筋によるものか、その姿はまさしく「貴公子」と呼ぶにふさわしいものであったが、好敏のまなざしには覚悟がみなぎっていた。
幼年学校から士官学校へと順調に進学した好敏は、士官学校を優秀な成績で卒業し、工兵少尉に任官した。配属となったのもエリート揃いの近衛師団であり、軍人としての人生は順調にスタートしたと言っていいだろう。
しかし、時代が決して平穏へとは向かわないのは歴史が示している通りである。日本とロシアは、まるで好敏の任官を待っていたかのように戦争へと突入することになった。
御前会議で対露開戦が決定した2月4日。
東京近郊に親や親戚が住んでいる者に限って、一時帰宅が許された。事実上、今生の別れを告げるための機会である。好敏も父に報告するために外出許可を取ったが、父に会う前に「ある男の家」を訪れることを決めていた。
その男は現在、教育博物館の看守を辞め、現在は東京女子高等師範学校に勤務している。聞くところによると、自宅では女学生向けの下宿を営んでいるという。
かつて新選組隊士として幾多の死線をくぐり抜けた、斎藤一。
戦場に赴くにあたり、もう一度あの人に会わなければならない。
藤田夫人は、いかにも「下宿屋のおかみさん」といった優しげな人であったが、その奥に強さを秘めていることを感じさせた。
夫人は突然の陸軍将校の来訪に動揺することなく、要件を聞こうともせず、好敏を客間へと案内した。部屋には火鉢が置かれ、冷え切った空気をほのかに温めていた。
火鉢から離れ正座して待つと「これは御立派になられましたな」という声とともに藤田五郎、かつて斎藤一と名乗っていた男が現れた。
「突然お邪魔して申し訳ありません」
「とんでもない。このような粗末な家に帝国陸軍の将校殿がお越しくださるなど、誉れというものでありましょう」
藤田は博物館時代の優しげなまなざしを向けたが、好敏の顔から緊張が消えることはなかった。
あらためて背筋を伸ばし、藤田の方へと向き直った。
「近々、戦が始まります。
私の所属する近衛師団も、すぐに行動を開始します」
藤田の表情から、優しげなまなざしが消えた。
「私にとっての初陣となります。
もちろん、この日のために厳しい訓練を積んできましたが、我が方の損害は軽微なものではないでしょう。
本日は藤田さんに…。いや、新選組の斎藤一という人に、戦場での心構えをご教授いただきたく罷り越しました」
その言葉を聞いた瞬間、藤田はハッと目を見開いた。
目の焦点を好敏の背後に置くかのように、虚空を見つめたまま動かない。
好敏は本能的に「何か心の中にしまい込んでいた記憶、蘇らせたくない記憶を呼び起こしてしまったのかもしれない」と気づいたが、もはや後戻りはできなかった。
教育博物館にいた「看守の藤田さん」とは違う、針のような眼光が好敏の胸に突き刺さっている。少しでも動いたら、自分の首は体から離れ、畳の上に落ちるのではないか。目の前の男は寸鉄すら帯びていないのに、好敏はまったく身動きができなかった。
二人とも微動だにしないまま、火鉢に置かれた炭だけがチロチロと燃えている。
「では斎藤一として、戦場における私の部下としてお話をさせていただく。今から口調を改めるが、それでもよろしいか」
沈黙を破ったのは藤田、いや斎藤の方であった。金縛りが解けたように、好敏は大きく息を吸った。「光栄です」と頭を下げる。
すると斎藤は、好敏の思いもよらぬ言葉を発したのだった。
「臆病者になられよ」
どう返したらいいのか呆然としていると、斎藤は「そう、私はそう言うべきだったのだ」と独りごちた。
「少々長い話になる」
そして斎藤は、好敏が生まれる前の時代について語り始めた。
回り道のような話になるが、新選組の隊服の話をしよう。
貴公も聞いたことがあるだろう。新選組には浅葱色の隊服というのがあってな。そう、薄い青色で、袖を山型のだんだら模様に染め抜いた羽織だ。実はあれを使っていたのはほんのわずかな間だったのだが、確かに一時期、そんな隊服があった。
なぜ浅葱色をしていたか。
巷ではまるで聞いてきたかのような話がいろいろあるが、実は我らにも本当のところはよくわからんのだ。何せ、局長の芹沢が思いつきで作らせたものだからな。
ある日突然、芹沢が『隊服を作った。どうだ、なかなか格好いいだろう』と言えば『なるほど、いいですな』と言うしかあるまい。なんせ奴が少し臍を曲げただけで誰かが半殺しに遭うのだから『なぜ浅葱色なのですか』などと、正面切って尋ねる者などいるものかよ。
しかしあの隊服は、あまりに目立ちすぎた。遠くからでもすぐに「新選組が来た」とわかるから、不逞浪士どもにとってはむしろ好都合でな。そのうえ、値切りに値切って作らせたせいか生地が薄く貧相なのだ。
まぁ結成当初の新選組にはとにかく金がなかったから致し方ないのだが、当然ながら隊士には不評でな。芹沢の死後はあっという間に廃れた。それ以降に入隊した奴らは、そんな隊服があったことすら知らなかったかもしれん。
しかし私は、なぜかあの隊服が忘れられなかったのだ。
浅葱色は、知っての通り『死に装束』の色だな。新選組は死に狂いの集団であったからそのような色を好んだと思うかもしれんが、それは違う。浅葱色を着て任務に臨むからには、何が何でも生きて戻らねば意味がない。死ぬことが許されない色なのだ。わかるか。
考えてもみよ。自ら死に装束を着て出かけ、本当に死体になって戻ってくるなど、ただの間抜けではないか。どんな大馬鹿にもできる。そのような無様な姿が武士の誉れであるものかよ。浅葱色を着て任務に臨んだからには、何が何でも生きて戻らねばならん。
つまり、浅葱色の隊服は『決して死ぬな。この任務で死ぬことは許されん』という意味なのだ。
死体で戻ったらただの間抜けだぞ。臆病者になってでも、卑怯者になってでも生きて戻れ。とな。まさか芹沢にそんな意図はなかっただろうが、少なくとも私はそう思っていた。
私は、芹沢という男が好きであったよ。手の付けられない狂犬のような男ではあったが、裏表がなかった。酒に酔ってさえいなければ、面倒見の良いところもあってな。
しかし奴は残念ながら、臆病者ではなかったな。酒乱が自分の命を縮めるなど、露ほども思っていなかった。奴が死んだのは、近藤一派のせいではないぞ。「臆病を怠った」からだ。
そして、奴を葬った近藤も土方も死んだ。奴らは芹沢が作らせた隊服などまったく執着はなかっただろうから、浅葱色の真の意味を知るはずもあるまい。知っているのは私だけであろう。
私が数々の戦場で生き残ることができたのは、剣の腕ではない。人一倍の臆病者だったからだ。
私は何時でも『今ここに敵が現れたら』『斬り合いになったら』ということばかり考えておった。巷に伝わる話では『斎藤一は無口で不気味な男だった』と言われているらしいが、私が無駄話をしなかったのはそれが理由よ。
たとえ宴席にあっても刀は片時も離さず、いつ現れるかもしれない敵に怯えながら飲んでいたのだからな。誰とも話そうとせずに一人酒をしていれば『斎藤は薄気味悪い奴だ』と言われるのも無理はない。
屯所で刀の手入ればかりしていたものもそれが理由だ。新選組の奴らは、私を刀の蒐集家とでも思っていたようだが、とんでもない。斬り合いのときに使い物にならなくなるのが怖かったのよ。いくら丁寧に手入れをしても、何日かすると『本当に大丈夫だろうか』と不安になってくる。私にとって刀は、生きるための道具であったのだ。
戦場では勇敢な者から死んでいく。残るのは卑怯者か臆病者ばかりだ。つまり、明治の世で偉そうに勲章をぶら下げている男たちは皆、どちらかということだ。戦を知らん者は、文字通り「勲し」の章だと思っているかもしれんが、むしろ逆だな。
むろん私も、卑怯者と臆病者の勲章を山ほどぶら下げておる。目には見えぬがな。
私にはな、空の色が浅葱色に見えるのだ。
晴れた日に広がっている空の色は、すべて同じ青ではないだろう。天高い空は藍色に近いが、地表に近づくにつれて薄くなっていき、ある一定の高さの空は浅葱色に近い。
いまいましいことに、あの青色はちょうど目の高さにあるのだ。あの隊服を着なくなった後も、空に目をやるといつも『死ぬことは許されん』と言われていたような気がしたわ。
私の戦場は、いつもあの色に見下ろされていたのだ。鳥羽伏見でも会津でも、西南の役でも。私が戦では死ななかったのは、剣の腕ではない。あの色がいつもつきまとっていたからだ。
斎藤一に教えを請いに来た以上、貴公に教えることはただ一つ。
臆病者になれ。
空の浅葱色を見たときには常に、この任務を思い出せ。
わかったか。わかったのであれば復唱せよ。
ふむ、よろしい。
武運を祈る。
(⑨へ続く)
ここまでの話へのリンク
浅葱色の翼①
浅葱色の翼②
浅葱色の翼③
浅葱色の翼④
浅葱色の翼⑤
浅葱色の翼⑥
浅葱色の翼⑦