見出し画像

【研究メモ】 「番頭」の成立と歴史的変化を追う!~青野(2011) 番頭の研究-ナンバー2・参謀とは違う日本型補佐役の条件 からの学び vol.02

前回に続き、青野(2011)より、「番頭」という役割がどのような時代背景のもとに生まれ、時間とともに変遷してきたのかについて整理したいと思います。

各時代での、「番頭さん」の役割や特徴について、抜粋しました。一部、要約しています。いくつかの先行研究を見ても、青野(2011、初版は1991)から、番頭の定義や、歴史的変遷について引用されていることが多いです。

確かに、丁寧に記述されているので、「番頭さん」の概念についての理解が、大変深まりました。今後は、他の書籍にもあたることで、もう少し相対化というか、複眼的に概念を捉えてみたいなと思います。

ーーー以下、青野(2011)より引用。一部、要約や表記を調整ーーー

[江戸時代初期]

  • 江戸時代は、大坂、京都の三都をはじめとする都市が急速に発展した時代。そうした江戸時代の初期、すなわち寛永の頃(1624~42)に、「番頭制度」が生まれ、「番頭さん」が誕生

  • 徳川三代将軍。家光が治世した時代。

  • この頃に、世界最大の消費都市、江戸が誕生し、つれて江戸市中に大規模店舗「大店」が誕生した。

  • 大店の誕生と同時に、商家の組織も整備され、「商家の雇い人の長で、主人から店の実務のいっさいを預かる者」―すなわち番頭を中軸とする人事制度が定められた

  • 当初、大店のみにみられた番頭制度は、次の延宝期から元禄期(1688~1703年)の頃に一般の商家にも採り入れられるようになり、一つの社会制度として定着している。

  • 当時の番頭は、いわば実務の総合補佐役

[江戸中期]

  • 江戸時代中期の享保期(1716~36年)に劇的ともいえる変化をみている。

  • 享保元年、徳川8代将軍 吉宗は将軍職につくと直ちに幕府財政を立て直すべく「享保の改革」に乗り出した。

  • 享保の改革が生み出したものは、史上初の恐慌的な大不況。二十余年もの間、現代でいうマイナス経済成長の時代が続いた。

  • その大不況の中で、各地で富商や豪商らが相次いで潰れ、京都だけでも五十数家もの富商、豪商が没落していった。

  • 番頭には、人柄の良さもさることながら、人並みはずれた商オの持ち主であることが第一に求められるようになった。

  • かくして享保期以降、年功序列による番頭の登用から、実力・能力主義による抜櫂人事へと変わっていくが、このことが「実力番頭」の誕生に結びつくこととなるのである。

  • 江戸時代の商家では、主人と大番頭以下の使用人はいわゆる″主従の関係″にあった。これは武家社会の主従の関係をそのまま商家にも採り入れたものである。

  • 実際には主従の関係を超えた、情愛をもとに深く結びついた″運命共同体″ともいえる関係にあった。

  • 日本ならではの特異なものがみられた。「店」に関する考え方がそれである。「店」は主人のものでなく、「先祖からの預かりものであり、社会からの預かりものである」とで考え方がなされていたのである。・・・「家業」の存続こそが第一と考えられていた

  • 武家社会では「家老職」が世襲を基本としていたのに対し、商家の番頭制度は実力・能力主義による抜擢人事を基本としていた。そしてこの抜櫂人事は前述のように享保期以降、より一般化し、ごく一般的な商家でも採用されているが、大店の場合、大番頭まで昇進することは至難そのもので、よほどの実力を存していないと大番頭にはなれなかった

  •  大番頭はオーナーである主人に代わって、店の経営実務いっさいを取り仕切る立場にあった。他方、オーナーである主人は経営実務のいっさいを大番頭の手にゆだね、自分は一歩距離を置いた立場で、より冷静な目で経営実態をチェックし、必要と思う指示を大番頭に与えるという姿勢に終始している。番頭政治。

[明治期]

  • 明治政府が意図的に旧来型の商人を切り捨て、他方で、前出の冒険的な企業家の育成と保護に力を入れたのであり、それは次にみるような明治という時代の特殊性をも反映していた。

  • 明治政府の手によって、いわば日本型資本主義が移植されていくのだが、その明治政府と結びついたのが前出の渋沢栄一をはじめとする、冒険的な企業家たちであった。

  • 彼らはいずれも政商的な活動を軸にして一代で財閥を形成している。そしてそのことが新しいタイプの実力派番頭― 「会社型企業家」(高橋, 1977)の台頭をうながすことになる。

  • 彼ら財閥の大番頭たちは、高等教育を受けた会社型企業家で、江戸時代の番頭とちがって財閥ファミリーと″主従の関係″にあったわけではない。独立した専門経営者であり、会社型企業家であった。しかし、いわゆる″番頭精神″まで失っていたわけではなかった。なぜなら、財閥の大番頭たちは独立した専門経営者ではあったものの、それでいて財閥ファミリーとは心情的に主従の関係を保っていて、主家の永続を図ることをもって自分たちの第一の務めと考えていどどれたのである。

[昭和・戦後期]

  • 敗戦の昭和20年11月2日のことである。日本占領軍・総司令部(GHQ)が財閥資産の凍結と財閥解体を指令した。

  • これによって明治期以降、日本経済の中核をなしていた財閥が消滅したのである。そしてこのときの財閥の解体と消滅とともに財閥を支えていた「番頭政治」(番頭制度)もまた消滅しているが、ここで一つ見落せないことがあった。

  • 財閥の番頭政治(番頭制度)そのものは財閥解体とともに消滅したものの、「番頭機能」そのものは消滅しなかったのである。そればかりか、番頭機能の方は戦後、その形を変えて一つの機能組織として企業に採り入れられて、戦前にましてその機能を拡充されて現在へと継承されることとなったのである。

  •  現在、各企業でみられる「補佐役機能」という名の、″番頭機能″がそれである。

  • 財閥系企業にはトップを補佐する補佐役機能が生まれていて、それが企業経営を支えていた。他方、中小企業あるいは商家では江戸時代とそう変わらぬ番頭制度と番頭機能が継承されていた。

ーーー以上、引用終了ーーー

社会環境の変化とともに、「番頭さん」の役割や果たすことが期待される機能、要件も大きく変わってきたことが読み取れました。面白いですね!!

上記では、割愛していますが、三井物産の前身(創業時は、 呉服 商・越後谷)が、のし上がっていく話しやその陰で番頭さんが活躍したエピソードなども記載されており、歴史小説を読む面白さがありました。

そして、GHQの財閥解体とともに、名称としての「番頭制度」は、消滅しているように見えますが、「番頭機能」そのものは、企業における「補佐役機能」として残っているというのも、興味深いです。

本書では、番頭は「トップの楯となって泥をかぶるまでのいわば忠臣的な役割」を果たす必要があると論じられています。

現代の企業経営の文脈でみたとき、この”忠臣性”をどの様に適切に表現できるかは、引き続き考えていきたいなと思います。

ファミリービジネスであっても、よほどの伝統(社歴)を有している、もしくは、深い信頼関係を経営者と築けていない限り、「忠臣的な役割」を果たそうというマインドは育ちにくい気がします。

創業者から、2代目、3代目くらいの事業承継を経験したファミリービジネス企業においては、どんなワーディングだと、”番頭的役割の方が持つ、コミットメント”のような概念を、よりしっくり表現できるのでしょうか?

#ファミリービジネス
#同族企業
#事業承継
#リーダーシップ
#シェアド・リーダーシップ
#番頭
#FamilyBusiness
#Seccession
#Leadership
#SharedLeadership


いいなと思ったら応援しよう!