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「関心がもてない」なぜ人は物事に関心をもつことが出来るのか【後編】
えーとえーと前編では………など。くどくど書き留めるのは止めにします。前回の記事での反省点。それは記事全体が非常に長くなってしまったこと。「こんな長くては読む気になれん!」と、実際に自分の目を通して実感いたしました。今回の目標は「短く端的に!」です。
ではスタート!
本日も前回に引き続き、「物事に関心がもてない」をテーマに語っていきます。今回は「関心を持つためにはどうするか」を中心に綴ります。※ この記事は10分で読むことができ・・・るよう努力して書いています(にこ)
無理に関心をもつことは正解か、不正解か
無理(意図的)に関心をもつ場合の結果は2つ。
1つは本気になれること。はじめこそ関心の無かった物事が「まあやってみるか」と曖昧に手をつけることにより、時間の経過を得て、「あれ。なんか俺めっちゃ熱中してるんだけど」の状態に落ち着くことである。
気がつくとのめり込んでいる。そういう状態になれるのならば、意図的に関心を持とうとすることも悪くないのかもしれない。良い傾向にみえる。
そして
2つ目は苦痛を感じること。これは、無理に関心を抱こうとしたものの、自分の気持ちを押し殺すことになった結果を示している。ねじ伏せた気持ちのまま「これこそ俺の関心事だぜ!」と無理にある物事に執着しようと頑張り続けること。自分の心に嘘をつき続けることほど辛いことはない。よってこの場合は良い結果とは呼べない。失敗。不正解。
そう述べてみる。も、この問いかけに「正解」や「不正解」は無いように思われる。結局は人それぞれという結論に逢着するからだ。
ユクスキュルの環世界
ミスターユクスキュル。聞いたことがあるだろうか。ミスターユクスキュルはドイツの生物学者であり哲学者。『環世界』を唱えたお方。
全ての生物は自分のもつ知覚を介して世界を見ている。世界は環境など「客観的」なものではなく「主体的」に築きあげている。つまり生物一つひとつの知覚がそれぞれ存在する。独自にある。という考えを提唱した方だ。
おまとめ致しますと
私たちを取りまく環境を軸に「時間」が動いているのではなく、自分を主体とする独自の時間・空間を知覚し、それをもとに行動している。・・・ということ。なるほど。すべての生物が自分を主体とした時間や空間をもっているのか。ということは動物と人間とでも異なる時間の働きがある。
霊長目ヒト科ヒト属の哺乳類であるところの人間もまた、個々に知覚をもっている。EさんとFさんは非常に仲が良いが、やはり二人は別の世界を生きている。別の世界に生きているのだから時間・空間に差異があることはもちろん、物事に対する感じ方だって違うはず。当然関心を抱く事柄も異なっている。そう考えるのが自然である。
皆が熱中しているからといい、自分ひとり関心を寄せれなくとも何もおかしいことはない。自分の世界とみんなの世界は違うのだから。
脳の錯覚・脳を錯覚
突然だが脳の錯覚する力はすごい。「あーお腹減ったわ」と思えば思うほど空腹に思える。腹の虫も鳴いた……ような気になる。そしてつい一時間前にランチを食べたにもかかわらず、またハンバーガーを購入している。恐るべし脳の錯覚力。
もしも
あなたが本気で何か物事に「関心をもちたい」のなら、脳を錯覚させることで関心を抱くことが可能性としてある。何に関しても「あれ。なんか楽しいかも!」と脳を錯覚させる。そうすることで「うわ。つまらなそうなんだけど」という物事が「なになに楽しそうじゃん」という感情の動きへ転換する。
つまらなそうな物事が「楽しい」という気持ちに変わると、人は関心を抱きやすくなる。そういう「なんか楽しそう」という感情をつくりだすのは日常的に訓練することで可能だろう。
ここで1つご注意を。脳を錯覚させるのは「楽しそう」という感情であって、「これが俺の関心事だぜ」という無理強いの錯覚ではない。
退屈の反対は?
退屈の反対はズバリ熱中である。何かに関心を抱き、我を忘れて夢中になる。時間も忘れて没頭する。そして恋人の誕生日を忘れさる。もちろん恋人に夢中な方は誕生日など忘れない。
こういう熱中には感情の高ぶり、つまり興奮がつきもの。
興奮について
あなたは興奮と聞いて、なにを思い浮かべますか?
それこそ人それぞれ。もはや口癖になりそうな「人それぞれ」に宿る興奮とは実にさまざまなことを指す。もっとも興奮を感じやすいのは刺激を受けることだろう。その対象は人でもあるし出来事でもある。
興奮のもつ作用は馬鹿にできない。「誰も馬鹿にしてないわ。馬鹿」そういう声が耳をかすめないでもない。が、続ける。興奮という感情を沸き立たせることこそ退屈から脱却する方法の一つと言える。関心を抱く楽しさはここにある。ではこの興奮をどうやって抱こうか。
あることあること全てに興奮をしていては身がもたない。というよりも「慣れ」てしまいそうだ。とはいえ、私たちの日常には非常に多くの発見と出会いが溢れている。にもかかわらず、それらに慣れてしまっている。その為なかなか興奮しない。▼駅前に新しいハンバーガーショップが出来たからといい、とくべつ興奮もしない。
しかし
ひと昔前は違った。昭和45年。はじめて日本にハンバーガーショップが開店した。マクドナルドではなく『ドムドム』というファーストフード店が東京に現われたとき。人びとは感動したと言う。興奮したと言う。たしかにそうかもしれない。これまで無かったものが新しいモノとして目の前に現れる。そういう出会いは間違いなく人の感情を刺激することになる。
今の世の中において「新しいモノ」は、もはや「新鮮」に映し出されないのかもしれない。
昭和時代で野良犬を見かけることは珍しいことでは無かったらしい。しかし今ではどうだろう? 駅前に新しいハンバーガーショップが現れるよりも、駅前にハチ公並みの大きな野良犬が現れた方がよほど新鮮である(かの秋田犬は野良犬ではない)。
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ふと、動物園や水族館へ行く目的を考えてみた。私たちはどうして動物園へ出向くのか。小学校の遠足でよこはまの動物園に行った記憶がある。あのころ、心の底から動物に関心を抱いた人はどのくらい居ただろう。
デート先に水族館を選ぶのはどうしてだろう? イルカに興味があるからだろうか? それともイルカショーに興味があるのだろうか。それともイルカを見て微笑む隣の彼女に興味があるのだろうか。どうなのだろう。
わかることは、大人と子供では関心への度合いも具合も違うことである。大人よりも子供の方がより多くの物事へと関心を向けることができる。かれら子供は素直である。疑うことを知らない。まだ見ていない知らないことや、体験していない事柄であふれている。常にわくわくの世界を生きている。
関心を抱く。そのために私たちは、感情を豊かにすることから始めてはどうだろうか。どんな賢人であれ、世界を知り尽くすことは不可能である。世の中には知らないことの方が多く存在する。ならば、まだ見ぬ未知の世界はそこかしこ至るところへ転がっているはずである。
あたらしい世界へ。びゅーん。
あたらしい世界へ飛び込んでみる。あたらしい世界を発見する。これは簡単なことのようで難しい。なぜなら先ほども申したように、世の中には新しいモノがたくさんあるからである。新鮮味が足りない。そもそもあたらしい世界とは何のことだろう。どこを指すのか。宇宙はどうか。
ふむふむ。なるほど。宇宙なら多くのひとが「新鮮」を感じることが出来るだろう。なぜなら宇宙空間なんてそんなもの。多くの人が体験していないですもの。
「だったら、公共交通機関としてのロケットが開発されるのを待つより他になさそうね」否。そんな大それたことを言っているのではない。しかもそんなものを待っていては日が暮れる。日どころか途方もない歳月が暮れてしまう。
猫目の言いたい「あたらしい世界」とは日常の中にあるものである。どれほど些細な発見でもいい。とにかく自分の力で発見することが重要だ。あたらしい世界(モノ)を自分の力のみで見つけ出す。
自分で見つけた物事には少なからず心が動く。他人に「駅前にハンバーガーショップ出来たらしいよん☆」と教えてもらうよりも、自分で発見するほうが遥かに心が躍る。
有能なスマートフォンから教えてもらう情報よりも、自分で見つけた情報の方がはるかに夢がある。だからといい「さあみんな!スマートフォンを手放せ!」とは言わない。言えないが、何かを発見するその体験こそ、私たちに興奮しいては関心を持たせてくれる。
日常にあるもの。それは小説や漫画、映画も含まれる。これらは私たちの日常に近くありながら、その世界は日常よりかけ離れていることがある。たくさんの発見を得られる。そういう娯楽や芸術はあたらしい世界への入り口でもある。あなたの新しい世界は案外にも近くに潜んでいたりする。
どんな世界でもいい。自分の体験していないことや、知らないことを探す。そのことは私たちの心をゆたかに成長させてくれる。
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時間の流れで関心はやってくる
どうしても関心がもてないとき。何に対しても無関心で、あたらしい世界を探す気にもなれない。そんなときは「待つ」ことも大切である。焦って関心事を探そうとすればするほど、それは苦痛な時間となってしまう。
そういうとき人は「自分には何もない」と思いがちだ。だがそんなことは決してない。何もないなんてことは生きている限り、どの方面を見てもあり得ない。「なにかしらある」のだ。
ただ、今はそれを発見する心の動きがない。それだけである。みんなが関心を持っているからといって自分だけが関心を持てないこと、そんなことはざらにある。人間はそれぞれの世界を生きている。
なにもやる気になれない時間というのは、それこそ誰にでも存在している。それを誤魔化すため、敢えて忙しく立ち振る舞うことだってある。それをしないのは悪いことではない。むしろ自分と向き合うことができる貴重な時間である。いくら待っても「何もない」そう感じたのなら、それは外へ出るといい。旅へ出るものいいだろう。
ともかく「いつもと違うなにか」をやってみる。それだけで心の動きはいくらか滑らかになる。気晴らしから見つける「関心ごと」だってあるだろう。ちいさな発見を見逃さないことが大切だ。
結論
物事に関心をもつ、とはどういうことか。はじめに関心をもてない理由を考察する。すると以下の三つが挙げられる。
一 日常に物があふれているため習慣化されやすく、心が動きにくい。
二 完全な自由の中では心の動きが鈍くなりがち。
三 自分事でない限り、人は関心を抱くことができない。
つぎに「関心をもつ」ことそのものへ焦点をあてる。無理に関心をもつこと。つまり意図的に関心を抱くことで招く結果は二つある。①物事へと本気になれる結果と、②自分の心を無視し続け、苦痛を抱く結果である。
ドイツの生物学者・哲学者であるユクスキュルの唱える『環世界』をもとに、人はそれぞれ異なる関心を抱くということが分かる。
とりわけて大人と子供では、その感じ方が違う。
関心するには心の躍動が必要である。とりわけ感情の中でも「興奮」というのは非常に重要な要素である。この興奮を引き出すために新しい世界を自らの力のみで発見することは大きな意味をもつ。
それでも関心のもてない時は焦らず気長に「待つ」ことだ。気分が塞ぎ込んでいる時ほど、「自分には何もない」「関心ごとなんてどこにもない」と捉えがちである。しかしそんなことはない。何かしらあるはずである。そういう時は、普段と違う何かを行うことだけでも効果がある。
そういう動きの中で心は豊かになり、関心事を発見できる機会が増える。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
岡潔(オカ キヨシ)(数学者)
広い世界のものには関心が持ちにくく、
狭い世界のものには関心が持ちやすい。