呼吸が浅いなら、その「浅さ」を全身全霊で楽しんでみようじゃないか。 <良い・悪いの罠>
瞑想やマインドフルネス、私がお伝えしているmanakiなど
「今ここ」に意識を置いて感じる時間を大切にする・自分と向き合うといった概念がここ数年でもかなり広まってきています。
でもここで陥りやすいのが
「できる」 「できない」 の罠。
「良い」 「悪い」 の罠。
できるできない、良い悪いのジャッジから抜けたくて瞑想しているのに
逆にその瞑想が「できない」に陥ってる人、結構見かけます。
何を隠そう私自身も嵌りかけた。
本末転倒やん(笑)
そんな風に思う裏側には、こんな思い込みが隠れていませんか?
良い・悪いの視点に立つと途端にできる・できない意識になり
「できない私はダメだ」につながる。
そもそも「あの時の感覚」「理想の感覚」を追い求めている時点で
「今ここ」ではない。
ある視点から見ると、呼吸は深い方が良いのかもしれないし、身体は温かい方が良いのかもしれない。私もそういう視点で話をすることもある。
でもね、「感じる」という視点からは、こう提案したい。
呼吸が浅いなら、その「浅さ」を
全身全霊で楽しんでみようじゃないか。
良い悪いはないけど、好みはある。
私自身も呼吸は深い時の方が気持ちいいし、意識が忙しい時より静かな時の方が好きだ。
だけど今は浅いんだから、否定せずにその浅さをまるごと味わってみたら良い。
浅くても呼吸が入れば細胞に酸素が入ってきて気持ちいい。
(一定時間息を止めてみたら浅くても呼吸はものすごく気持ちいいと気づくだろう。)
その「ほんのちょっとの気持ちよさ」を堪能しているうちに、なんとか深くしようと頑張っているときよりも自然に
勝手に呼吸が深くなる不思議。
これは意識の癖みたいなもんで
思考が動き回ってるのをなんとかしようとするとすればするほど気が散って、放っておく方が静かになったり。
ネガティブを否定せずに受け入れた方が逆に気が楽になったりポジティブになったり。
「なんとかしよう」とせず、自然に沸き起こったもの、その心地よさをそのまま感じてると、少しの「心地よさ」「在る」の感覚が勝手に増えてくる。
良い悪い視点になると途端にやるのが苦しくなるよね。
感じることは修行じゃない。
(修行が好きな人はそれで良いと思うが)
「感じる」ことは本来
肉体を持って生きている今しか体験できない最高の楽しさなんだから。
そこに触れているときにほんの少しでも沸き起こる
嬉しさを、面白さを、心地よさを。
目の前の「感覚」を全身全霊で味わう。
そしてどうせなら、その感度をめいっぱい引き上げたい♡と思うのは
これまた私の好みなのだろう。
ムカデの痛みを全身全霊で味わった結果
感覚の面白さを実験する『感覚マニア実験室』
https://www.reservestock.jp/conclusions/16486
面白い!と感じたり、何かのヒントになったと思われましたら ぜひ支援をお願いします\(^o^)/