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道。
自分がどんな人生を歩んできたのか。
今までどんな価値観を大切にしてきたのか。
1月21日、6つの惑星が整列するタイミングで、今に至るまでの経緯をつづらせてください。🪐
個。
わたしは『個人性』を大切にしています。
つまり『自分の頭で考え、行動する』ということです。なので、わたしは一個人であり、どのような組織・団体にも所属していません。
振り返って思うことは、自分はずっと『異端』だった、ということです。
幼少期、自然の中で遊ぶのが大好きでした。「勉強しろ」と言われれば、遊び、遊んでばかりいるので、地元の公立中学校に入ることになりました。そこは劣悪な環境で、いじめに苦しみ、心が折れそうな日々を過ごしました。
ここから逃げ出したい…劣悪な環境からどうすれば脱出できるか、考えに考えた末、受験勉強をすれば、安全な生活を送れると思うようになりました。
それは「知」によって人生を変えられると確信する最初の体験でした。
そう言うとカッコいいですが、実際は勉強ができたわけでもなく、受験勉強に向き合ってる際、あまりに無謀なので先生方から「不可能!無理!」と何度も言われ続けてきました。
しかし不思議なもので、実力に見合わない目標でも、思いを持ち続けることで、高校受験、大学受験と、次々に志望校に受かる体験をし、いよいよこれはただごとではないと思うようになりました。
背景。 拝啓クレームさん
わたしは大家族の中で育ちました。おじいちゃん、おばあちゃん、両親、弟、妹と共にひとつ屋根の下で暮らした経験は宝物です。そして、親戚や歳の近いいとこ家族とも交流がありました。
そして家族ではないけれど、毎年会う人がいました。それはスコットランドの画家であり、作家、秘教学者のベンジャミン・クレームさんです。
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1985年から母の呼びかけで、毎年5月に日比谷公会堂で行われるクレームさんの講演会に出席していましたが、初回講演会時、わたしはまだ生まれていませんでした。
1995年に家族・親戚総出でクレームさんの講演会に参加し、一緒に撮った集合写真が最近見つかりました。当時わたしの年齢はまだ一桁。講演会の内容もほぼ理解せず、日比谷公園で捨て猫を拾っていました。
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不思議なご縁で、毎年お会いしていたので、5月のサンタさんのような存在でした。しかし、精神的な話に興味のある家族の中で育ったとはいえ、家族のどの人物も宗教に属すことなく、何かの協会や団体にも属さず、「なんかいい話だね!」くらいの関わり方だったのは本当にありがたいことでした。
つまり、当時子供だったわたしに対して、何かを信じるように仕向けたり、強要するようなことはなかった、ということです。現にわたし以外の家族の多くはあまり精神的な話に興味を持っていません。
反抗。
話を前に戻し、公立中学校でいじめに遭っていた頃の話です。反抗期真っ盛りのわたしは、内面の憤り、悔しさ、悲しみにどう向き合っていいかわからない悩みを抱えていました。
当時12歳。そんな時に(家族ではなく)知人を通して勧められたのが瞑想でした。そもそも瞑想の目的は、精神をコントロールすることではないのですが、12歳になったらクレームさんが提唱する奉仕のグループ瞑想に参加できる、とのことで半信半疑やってみたのです。
最初は15分、次に30分、1時間と長さを増やしていき、週に1時間瞑想をする習慣をつけていきました。
もちろんサボることもありましたし、効果があるかと聞かれれば、「よくわからない」くらいの認識でしたが、後々考えてみると、次々と人生の扉が開いていく体験の背後に、自分でもよくわからない力が働いていたのかもしれません。
ここではないどこかへ。
もし他の地に生まれていたら、きっと違った体験ができたに違いない。
いつしか学校の窓から遠くを眺めて、地平線を越えた遥か彼方に住む人々の生活を空想するのが好きになっていました。
もし異国の「言葉」が話せたら、地平線を越えた遥かへ行くことができるかもしれないと考え、高校受験、大学受験と、実力に見合わない目標が叶う体験を通して、大学では英語を専攻することになりました。
日本生まれの日本育ち、留学など行ったこともない普通の大学生が、莫大な経済的支援なく、外の世界を知るにはどうすればいいか。日々そんなことを考えていたら、大学の講演をきっかけに、地球一周するクルーズ船に通訳として乗船する方法があることを知り、通訳者を目指すようになりました。
そして周りが就職活動に励んでいる最中、徹底的に英語を習得し、通訳試験を受け、「ほぼ不可能」に近かった地球一周の切符を奇跡的に手に入れることができたのでした。
それらは自らの快挙というよりむしろ、周りの方々の支えと理解があってこそ実現できたことですが、ここでも実力に見合わない目標でも思い続ければ叶うという貴重な体験をさせて頂いたのです。
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葛藤。
地球を一周する前の自分には戻れない。
何かを体験する前と後では、まるで世界の見え方が変わってしまう。そんな経験はありませんか?もしかしたら、どんな些細なことでも、まるで地球が自転するように、わたしたちを動かし、変化させているのかもしれません。
地球一周から帰ったわたしは、教鞭を持ち、学校の先生として英語を教えるようになりました。
しかし個を大切に、自分の頭で考え、あらゆることに反抗し続けてきた価値観とは、まるで逆のことをしなければならない体験が続き、気づいたら自分が異端審問をしている立場にたっているような違和感に苛まれるようになりました。
同時に、英語教育に携わるうちに、自分はまだ海外の学校に通ったことがないことを意識するようになり、海外留学への願望を抱くようになりました。
ある日、突発的な症状に襲われ、職場で倒れてしまったことをきっかけに、いよいよこれは身体からの「次に進むサイン」だと確信を得て、ロンドン大学の大学院に行くことを決意しました。
3.11とスライヴ
2011年3月11日@東京
最後の授業を終え、教え子たちの寄せ書きに涙している時に東日本大震災は起きました。
当時の経験を綴ると長文になるので割愛しますが、鼻から流れてくる血、放射能汚染、テレビから流れる謎のポポポポーンというCM、跳ね上がる放射能汚染の暫定基準値、大好きだった父の実家、相馬を訪れた時の悲しい光景。危ないものを危なくないと装い、「直ちに被害は無い」と復唱するメディア。
その3ヶ月後にペルーへ研修に、半年後にロンドンへ修士留学に渡英。各国のメディアと日本のメディアが報道する情報の差に愕然としました。それらを目の当たりにして、この国は国民のために機能していないのではないか?と違和感を感じずにはいられませんでした。
そして、その違和感を裏付けるようなドキュメンタリー映画『スライヴ』(2011)に出会ってしまったのです。当時の自分にとって、驚愕の情報だらけで、雷に打たれたようなショックを感じましたが、それからというもの、世の中で起きているかもしれないことを仮説として自分なりに調べて考えるようになりました。
ロンドンでの生活
イギリスでは、ロンドン大学の大学院で教育と開発の修士課程を勉強しながら、毎週のグループ瞑想会とクレームさんの講演会に参加する生活をしていました。クレームさんが最後に日本で講演会を行ったのが2010年だったので、その翌年と翌々年にロンドンで定期的にお会いできたことはとても貴重な体験でした。
何より、一緒に瞑想をする機会に恵まれた事、その後の人生を変えてしまうような、個人的な対談ができたことはわたしの宝物です。
その時、クレームさんはわたし個人についての情報を直接教えてくれました。一切の金銭のやり取りなく、まるで古くからの友人のように、愛を持って接してくださり、たくさんのことを教えてくださったことに今でも深く感謝しています。
人生で最も貴重な情報を、わたしは一切の金銭のやり取りなく、親愛なる方から授かりました。ですので、わたしは以後スピリチュアルと称されるいかなるものにも、一切の金銭のやり取りを介さないと心に決めたのです。
クレームさんはわたしがイギリスを去った4年後にお亡くなりになられました。
最後に個人的に対談させて頂いた際に彼は、「わたし(クレーム氏)の言うことだって正しいかどうかわかりません。もちろんわたしは完全に確信を得てお話しています。ですが、あなたは自分自身でそれが正しいかどうか、よく考えなければなりませんよ。」と言いました。
それ以降、「自分の頭で考える」ということが人生の大きなテーマになっています。
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様々な国に持ち運んでボロボロに…
ロンドンでの生活は貴重な体験でしたが、表立ってこそいないけれども確かに存在する白人至上主義的な思想に反抗するようになりました。差別的な発言をした教授相手に本気の議論をするなど、葛藤の多い日々を過ごし、批判的に物事をみる力(クリティカル・シンキング)を鍛えられる場面に何度も遭遇しました。
しかし最後に、教育の定説に異論を唱えるような論文に、イギリス人でも取得するのが難しいA評価を頂いたことは大学院時代の最も嬉しい体験です。
7 years in India
2013-2019年:足掛け7年、わたしはインドで暮らしました。大学院在籍時、わたしの研究テーマは先住民の知識とマイノリティの人々への学校教育の負の影響についてでした。⇩修論
なんのために人は学ぶのだろう?という根源的な疑問と、良かれと思って推進している学校教育(特に英語教育)が、人間としての大切な知恵を奪っているのではないか?という懸念があったからです。
それが顕著に現れている地域を探していた際に、リトルチベットと呼ばれる北インドのラダックという地を知りました。この地はヘレナ・ノーバーグ=ホッジ監督の『懐かしい未来』『幸せの経済学』でもテーマとなり、有名になりましたが、特にキャロル・ブラック監督の『Schooling the World』というドキュメンタリー映画に衝撃を受け、研究テーマを決め、ラダックに赴くことを決意しました。
修論を提出し、大学院を卒業してからもまだ放射能のニュースが絶えない日本に帰国する気にはなれず、北インドのウダイプールで脱学習を実践する団体でインターンシップに参加したことをきっかけにインドで生活をするようになりました。
先進国の豊かで均一化された生活に反抗するように、様々な地の土着の人々と肩を並べて腹を割って語らうような生活をしてみたかったからです。フリーランス通訳者になったり、起業したり、友人の事業を手伝ったり、試行錯誤しながら、自ら選んだ異国での生活を送っていました。
描いたことが現実に起こる絵
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辛い時期、学校の窓ガラスから遠くを眺めているのが好きだった頃、遠い異国の地をキャラバンで転々としながら、好きな音楽を演奏して、気の置けない仲間達と楽しく生活するーそんな理想の生き方を空想したものです。
人生とは不思議なもので、そうなるように意図していないにも関わらず、気づけばそうなっていた、なんてことが時々起こります。
当時のわたしは、拠点を国際色の強い南インドのゴアに移し、音楽をしながら、世界各国から来た様々な音楽家とセッションをし、対価を得て、生活をさせて頂く幸運な機会に恵まれていました。
実はその光景は、高校時代に描いた絵の中にすでに表現されていたのです。当時17歳のわたしは文化祭へ向けて作品を製作している最中、湧いてくるインスピレーションのままにイメージをコラージュする作品を描きました。稚拙な技法ですが、各イメージにははっきりとした物語があり、ある種の確信を得て表現していました。
それから約10年後、たまたま海外に音楽の機材を運ぶ際、この絵のベニヤ板を緩衝材にしようと思って絵を眺めた時、当時の絵のイメージが今までの人生で現実に起こっていたことに気づいてしまったのです。
地球一周の船、留学先のロンドンの時計塔、画一化された四角い建物:学校、海外で演奏していた楽器の数々、辰年生まれの人物など、当時17歳のわたしには知る由もないイメージが、自分の身に起こった事象に深く関係があることに気づいてしまったのです。
ですが、まだ現実化されていないイメージがあります。右上の城です。シンデレラのようなガラスの靴には25と書かれており、誰にも見つからないまま日中の階段の上に置かれています。すでに現実に起こったことや左下の"わたし"は重く濃い色なのに対し、城周辺と"わたし"の足元(周辺)は淡い色で描かれています。
それはあたかも、どんなに"わたし"が暗くでも、城へ続く道が、自分の周りから繋がっているかのように…そして境界を超える1歩が25、つまり2025年から始まるかのように…
日本へ。
この絵を描いた17歳の頃から、ふと同じことを思い出すように考えていました。それは"30歳までは好きなことを思い切りやる”ということです。
実際、30歳の終わりにひとつのご縁が切れ、それから1年と数ヶ月経ったある時、わたしはA型肝炎にかかり、帰国することになりました。当時はまたインドに戻るつもりでしたが、療養中、時間をかけて人生を振り返るうちにインドは今行くべき場所ではないこと悟るようになったのです。
インドでキレイごと一切なしの世界のリアルを目の当たりにしながら、あらゆる人々と関わりながら生活できたことは、頭でっかちな世界に生きるよりも価値があり、そんな生活が出来たことに感謝しています。
しかし、ラダックにもウダイプールにもプッタパルティやオーロヴィル、ゴアにも、疑問の答えは見つかりませんでした。インドで生活した際に身の危険を感じる出来事には遭遇しませんでしたが、常に気を張り、用心しなければならないことが数多くありました。
皮肉なことに、イギリスでの見えない格差に反発してたどり着いた地で、さらに深刻な差別と偏見が渦巻いていることをひしひしと肌で実感してしまったのです。
そして帰国直後に世界的なパンデミックが起こり、感染症対策により渡航そのものが不可能になってしまいました。
世界を襲った見えない全体主義
世界的なパンデミック、感染症対策、ロックダウン、メディア報道、注射…そのどれもが疑問だらけでした。おかしいことをおかしいと思わない人々が主流で、おかしいことをどんなに論理的に説明しても、気狂いのように扱われる全体主義的な雰囲気に違和感しかありませんでした。
人々は足並みを揃えて、どこへ向かおうとしているのでしょう…まるで、2011年に見たスライヴの世界の実写版のようで、今までの仮説が次々と確信へと変わっていったのです。両親は理解し行動に移してくれましたが、実際に疑問を共有できる人の数は驚くほど少なかった為、匿名で個人的な啓蒙活動をしました。
言論の自由は弾圧され、言いたいことも言えない世の中の雰囲気の中で、今まで隠されてきた闇の輪郭が次々と顕になっていく…それをひしひしと感じていました。それは新しい時代へと移行する上で避けては通れないステップなのかもしれません。
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2025〜 新しい時代へ
なぜ2025年から今まで言えなかったことを言語化しようと思ったのか。
そのきっかけは、1. 2025年に関する神智学書の記述に緊急性を感じたこと 2. 過去のとある出来事が時効になったのではないか?という考え、3. 大人気Youtube, TOLAND VLOGで紹介された『日本から始まる学問のプロトタイプ』についての可能性を探りたいという思いです。
1と3に関しては、別の記事に書きますね。
2に関して手短に書くと、大学時代、当時約20歳のわたしは、人生の扉が次々と開く体験の背後に、自分でもよくわからない力が働いたのではないかという疑問を追求するため、また精神世界での奉仕というアイデアに関心を寄せ、クレームさんの書籍を中心に神智学や秘教に関する書籍を読み、積極的に瞑想に参加していました。
"真の師と団体なら叡智を売ることはない" - H.P.ブラヴァツキー
特筆したいことは、クレームさんの仕事は徹底した奉仕の精神に基づいており、クレーム氏の講演会、研修会、瞑想会などへの参加に一切の金銭のやり取りは発生しなかったことです。
1995年度の講演録では、講演会および研修会の内容も公開されており、印刷・出版され、誰でも読めるようになっています。
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2008年5月、当時22際のわたしは、クレームさんの講演会後に催される研修会に参加できることになりました。抽選だったので、あとで行けなかった知人に講義の記録を見せてほしいと頼まれ、見せてあげました。
そうしたら知人は暴走するように書き写し、コピーをとって周りに配ってしまったのです。(何が書いてあったのかわたしは知りません。)そのことが巡りに巡って通訳者の方の耳に入り、わたし宛にきついお叱りの手紙が送られてきました。
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クレームさんはよく、この情報に関して1%でも腑に落ちたのなら、あなたの言葉で友人知人に伝えてください、とよく言っていたので、そこに矛盾を感じた当時20代のわたしは、心から反発しました。
しかし、今では理解できるのです。通訳者の方のように、このユニークな情報の価値を損なわず、一言一句ありのままに伝える役割の人や団体にとって、活動を運営する上で、自由な発言や勝手な行動は好ましくないでしょう。
それに当時のわたしはまだ学術論文など書いたことがなく、そもそも誰かに見せるつもりで記録していなかったので、講義メモの内容も未熟だったと思います。
不思議な夢
また同時期、印象的な夢をみたのです。昼下がりに自室のレースのカーテンが風で舞い上がった後、カーテン奥にある書斎にオレンジ色の長髪の女性が座っていて、わたしの書いた文章と挿絵を真剣に眺めていたのです。サラサラの長髪の見たこともない美しい女性でしたが、怖いくらい真剣な眼差しでノートを眺めながらこう言ったのです。
「あなたの絵はいいけど、文章は…だめね。」と。笑
当時の社会では公の場で精神世界の話をするだけで憚られる雰囲気がありましたし、このような体験を経て、公の場で秘教や神智学に関する話はしないと決めました。そして何より自由に考えて行動する個人であり続けるために、組織や団体には属さないことを決意したのです。
それから15年以上経ちました。どんな団体・組織でも、自由に考える若者のような人間を拒み続けると高齢者しか残らず、結果グループは必然的に衰退します。それは自然の摂理です。「若者こそが新しい時代を導く」という情報を伝えるグループにも同じ摂理が働いているのは皮肉なことです。
思い返せば12歳の頃から、自分なりに秘教や神智学について研究しながらグループ瞑想を継続してきました。
そしてつい最近出会った『日本から始まる学問のプロトタイプ』という概念と、2025年に関する神智学書の内容が、今を生きる人たちに重要な情報を伝えているのではないか?というインスピレーションと疑問を追求するため、過去に禁止されたことを時効として自ら解き、今まで誰にも話さなかったことを可能な限り客観的に言語化することで、今後の世界に一石ならぬ一滴を投じられるではないか?という想いでこの文章を書いています。
2025年1月21日、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星という6つの惑星が整列する天体的なタイミングで、夜更かししながらこんな長文を書いているのも背後に見えない力が働いているからなのかな。
それはわかりませんが、こんな長い話を最後まで読んでくれたあなたは、きっととても優しくて素敵な人だと思います。
最後に有名な引用文で締めくくらせてください。
"我思う故に我あり" ールネ・デカルト
私は考えている、それゆえ私は存在している。
考えているということが自分の存在である。
すべての意識内容は疑うことができても、意識そのものや意識する自分の存在は疑うことはできません。
考えるとは、マインドの活動であり、神の3様相の一つマナスの領域です。
自我を認識することが真我へ続く道となるように、魂が影響し得るのはマナスの領域です。
たとえ逆境の中にあっても、あなたはあなたの考えにおいて自由です。
その自由を大切にしてください。
最後までお読みいただき、ありがとうござました。