譲ろうとしたワタシと、注意して制止させたあの子
パラリンピック、メダルラッシュですね。
ハンデをもろともせず果敢に攻める姿は勇敢な戦士のようにも映ります。
この大舞台に立つまで、多くの苦悩があったのだろうなと思うと、いち健常者として暑いだの疲れただのつまらぬ文句ばかり言ってらんないなーと反省です。
そして小学生だったあの日の事をふと思い出したりします。
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小学2年生だったか、3年生だったか。
いつものように遊具がたくさんある公園に友達と出かけた時のこと。
人気のブランコ前でいつものように順番に並んでいた。その時、後ろの方から割り込んできた子がいた。見知らぬ子だったので、別の小学校の子だったのかもしれない。近所の顔見知りの友達たちもザワザワしていた。
だって、ブランコは順番に並ばなくっちゃいけないんだもの。
当時通っていた小学校は、今でゆう支援教室に該当する特殊学級というクラスがあった。
静かにするのが苦手だったり、急に騒ぐことがあったり、普通クラスで同じ授業を受けることが難しい子どもたちが集まったクラスだった。
わたしたちは、特殊学級にいる子どもたちとも仲良く遊び、困っている時は親切にしましょうと教わって育った。
同じぐらいの年齢のその子は、よその学校の特殊学級の子かもしれない。わーわー騒ぎながら、次々と並んでいる子を押しのけてこちらにやってくる。
ああどうしよう、でもブランコで遊びたいのだったら、どうぞって譲らないといけないのかな。
その時だった。
「○○!順番抜かしなんてせこい!
ちゃんとみんな並んでるやからん並べ!」
その威勢のいい声の主を見ると、別の小学校の人だった。順番抜かししてきた子とも知り合いみたいだ。
押しのけて前に前にやってきてた子の手を引っ張り、列の最後尾に連れて行った。
ふてくされながらも、その子は順番抜かしを諦めて、自分の番がやってくるのを待った。
やがてその子の番が回ってきて、注意した友達と共に楽しそうにブランコに乗っていた。
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幼心に何故かこの日の記憶が深く残っているのだ。
強引に順番抜かしをしてやってきたハンデのある子に対して、
「良かったらどうぞ」
と譲ろうとした私は本当の親切心だったのだろうか。
「ルールがあるんだよ!
みんな守ってるんだから遊びたいなら
順番抜かしせずに、みんなのように並ぶんだよ」
と注意できたあの子の方が正解だったのではないだろうか。
顔見知りのクラスメイトだったら、間違いなく後者で責め立て、順番抜かしを制しさせて、翌日の朝の会で文句のひとつも言ったことであろう。
しかし、特殊学級にいるようなお友達に対して、注意することに躊躇いがあった。「可哀想だから」どうぞって譲ろうとしようとした自分の行為は、偽善者ぶった感じがして、とにかく、すごく気持ちが悪かった。
堂々と注意して手を引いて最後尾に促したあの子が凄くかっこよく見えたのだ。
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困っている人がいたら、自然と手を差し伸べる人でありたいと思う気持ちに変わりはない。
しかし、あの時真っ先に注意できたあの子のように、フラットに対応できる器も育んでいきたいと思う。
こちらの記事を目にした時も、ふとあの日の居心地さの悪さを思い出した。
へんに勘ぐった大人が、老婆心であれこれ指図をする時代ではないのだろう。同じ環境で同等に学び、交流する時間を増やした方が、多様性はごく自然なものとして受け入れらのではないだろうか。
子供の目線は大人が思う以上にフラットだ。
ハンデのある友達であっても、幼ければ幼いほど、自然発生的にと助け合いが生まれ、共に居心地良く生きる術を身につけられる気がする。
最後までお読みいただき、ありがとうございました🌏