池上彰著『池上彰の教養のススメ』(日経ビジネス人文庫)を読んだ感想
池上彰著『池上彰の教養のススメ』(日経ビジネス人文庫)を読んだ感想を書いてみたいと思う。
教養とは英語で”Liberal Arts”(リベラルアーツ)というのだが、自由にする学問という意味らしい。自由というのはFreedomではなくLiberalなのは奴隷から自由になるという意味ということは、以前、浦久俊彦著『リベラルアーツ 「遊び」を極めて賢者になる』(インターナショナル新書)に書かれていました。
古代ギリシアでは労働を奴隷が請け負い、労働から自由となった「自由人」が政治などについて日々考えていたということだった。
ーー時々ネットなどで働いたら負けだ、という方を見かけるが労働が奴隷のすることとするならば、あながち間違っていない、と思う。。
また、ふと思ったのだが、古代ギリシア時代には労働から解放された「自由人」は先ほども書いた政治など社会の運営などへ参加をしていた。現代で、政治に興味がない・選挙に行かないという方が時々いらっしゃるが、それはやはり自由人のやっていることを放棄して、つまりは奴隷として生きている、ということなのではないか。。日本も最近、投票率が下がってきているようだし…
おっと、、これ以上いうと「言葉は返ってくる」ので言わないでおこう…
さて、現代に生きる我々が奴隷かどうかはさておき、リベラルアーツを学ぶことで何か考えの「枠組み」を超えることができるのではないかと思っている。
それは一つのことに突き抜ける、というだけではなく、いろいろと学ぶことによって異なった視点を持つという意味で。
また、後半に書かれていたMITの校章について、片側に本を読んでいる人、もう片方にハンマーを持った人がいて、これは「理論と実践」を表しているそうだ。
かってな解釈だが、「手を動かす」とはつまり古代ギリシアでいうところの労働なのではないかとふと思った。考えることも大切だが、手を動かすことによって何か気づくことや新しいアイデアなどが浮かぶことがあるのでは、と思う。もしかすると労働することも我々には必要なのではないか、中庸ということが大切なのではないか、とも思った。
話は変わるが、アリストテレス曰く、「自由とは選択できることである。」ということが桑子敏雄著『なんのための教養か』(ちくまプリマー新書)に書かれていた。それはおそらく、少なくとも選択肢A、選択肢Bがあった時にその中から(良いほうを)選ぶことができる、ということなのだろう。しかし、その選択肢A、Bを得るためにはその前提となる知識A、Bがそれぞれ必要なのだろう、と思う。つまり学ばなければそもそもその選択肢を得ることができない=自由ではない=奴隷となってしまう。。
また対立する選択肢A、B(意見A、B)がある中で両者の合意できる選択肢Cをクリエイトしてしまう、ということが書かれており、その発想は自分にはなかったのでとても参考になりました。
話はそれるが、奴隷と自由人というのは、日本の幕末、明治はじめの時代についても当てはまるなぁ、と思った。明治になって、日本の内戦が一段落ついた時に、隣国「清」がアヘン戦争によって植民地となったことが知らされ、日本もうかうかしてると清と同じように植民地にされてしまう、という時に、福沢諭吉はその危機感から日本の人々は学ばなければならない、ということを訴えた。先ほどの桑子敏雄著『なんのための教養か』(ちくまプリマー新書)の中で桑子敏雄さんがおっしゃっていたことは、「教養は幸運なときには飾りとなるが、不運のなかにあっては命綱となる。」(アリストテレス)ということだった。まさに日本も他国のように植民地になるかいなか、すなわち「危機(不運)」である時に命綱となる教養を学ぶことが必要だと訴えたのである。そして日本は他国の植民地となることを回避することができた。教養とは幸運(順風)の時というよりは危機(不運)に陥った時にこそ役にたつ、というようなものなのだなと感じた。
自分も危機の時には、学んだ知識や教養が助けとなってくれたことが何度もあった。
そして話は戻るが、古代ギリシアの「自由人」は労働から解放され時間ができた時に何をしたかというと、余暇を楽しんだのではなく、なんと教養を身につけるために学んだ、ということも書かれていた。それは社会で活躍する市民となるため、ということもあるのだが、また来る冬(危機、不運)に備えるために学んだ、という意味もあったのではないか、と勝手に解釈している。そしてこの精神こそ学ばなければならないと、ひしひしと感じています。。
話は飛び飛びとなるが、昨今の日本の状況は、まさに幕末の時と酷似してはいないだろうか?大国が侵略のために小国を攻めるということは幕末そのものだ。そんな危機の時代にはやはり教養を学ぶべきなのではないだろうか。「教養は危機の時には命綱となる」ということがまさに今なのではないか。反撃する武器ももちろん必要だが、こんなときこそ明治にならうべきではないだろうか。
さっきも書いたが、自分自身の考えの枠組みを超えていくためにも、そして奴隷にならないためにも教養を学ぼうと思います。
自由人になりたい!!
以上!
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