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家業が倒産し大学中退、派遣社員となってから年収1600万リーマンになるまでの話vol.4

勝気な少年は唯我独尊の青年に

ミニバスケットのメンバー、そして周囲の大人たちの誰もが、僕がバスケ部に入ると思っていただろう。
中学では県大会を突破し、近畿大会に進むのだと。
しかし、僕が選択したのは陸上部だった。

皆は、裏切りだと感じただろうか?
偶然にも、5人のスタメンのうち僕を除く4人とは、別のクラスになった。
1学年200名以上の学校において、他のクラスのメンバーと頻繁にコミュニケーションを取る機会はそうない。
それもあり、ネガティブなことを言われた記憶はない。
それとも、記憶から抹消したのだろうか?

「お前がおれば、結果は変わってたかもな…」
記憶にあるのは、最後の県総体で2回戦敗退に終わった後の、この言葉だった。
前年秋の県新人大会では優勝していたので、なおさら悔しかっただろう。

4人は中学でも主要メンバーだったが、あまり身長が伸びなかった。
一方の僕は、180cmを超えるまでになっていた。
バスケにおいて、高身長は大きな武器だ。
それゆえの言葉だったと思う。

なぜバスケ部に入らなかったのか?
実は、明確な理由なんてない。
ただ、後から思い出した時に、おそらくこうだったというものはある。
それは「チーム競技の限界を感じた」というもの。

当時のスタメン5人のうち、県選抜メンバーが3人に市の選抜メンバーが1人いた。
県の選抜メンバーは総勢15人。
そこに3人も輩出するチームが、ベスト8の実力ということはない。
それでも勝てない、これがチーム競技だと感じてしまったのだった。

しかし、当時はもっと直感的だったはずだ。
大人になってから振り返り、後付けした理由に過ぎない。
これは子供だったからとか、若かったからという話ではないだろう。
ロジカルとみなされる人でも、実は直感で刹那的に判断していることは多い。
そしてその判断は、経験値による最も合理的な判断となっていることが多いのも事実だ。
彼らは必要とあらば、周囲が理解できるよう後から思考プロセスを言語化して見せている。
生粋の外資系戦略コンサル出身経営者のもとで過ごし、発見したことの一つだ。

そんなわけで僕は、チーム競技を入部の対象から外していた。
そうなると陸上部か水泳部だが、泳ぐのは得意でない。
結果、陸上部に。
そして、成果に対し、才能よりも努力の比重が大きいと考えた長距離を選択したのだった。

入部した陸上部長距離では、最高の思い出ができた一方で、人生で最もキツい期間だった。
顧問はいわゆる名将で、赴任先の学校を何度も駅伝強豪校にしていた。
当時まだ全国中学駅伝は10年程度しか歴史がなかったが、そのうち3回は名将の赴任先が制している。
全国駅伝が始まる前にも、何度も近畿駅伝を制していた。
そして僕の卒業後も、複数回全国制覇を成し遂げている。
スカウトができない義務教育の中学校において、この実績は驚異的だ。

僕が2年生の時、学校創設以来初めて、地区駅伝を制した。
その余勢を駆って、県駅伝優勝、全国駅伝入賞を果たしている。
「成せばなる」を人生の早いうちに経験させてもらえたことに、今なお感謝している。
先輩も同期も最高のメンバーで、皆がいたからこそ実力以上の力を出せたと感じた。
「チーム競技」を避けて陸上部に入った僕だったが、ここでチームの良さを再認識したのだ。

一方で、人生において戻りたくない期間でもある。
それほど苦しい期間でもあった。
メニュー構成に工夫の余地があるとはいえ、結局のところ、長距離種目は練習量がものをいう。
当然ながら僕たちは、高校生顔負けの練習を課されていた。
テスト期間でもお構いなし。
いつもより時間があると、量が増えたくらいだ。
また、駅伝は冬がシーズンなので、夏に引退するという概念も存在しない。
むしろ夏休みは、午前午後の二部練習が行われた。
3年生は、少ない時間に必死に受験勉強するか、さもなくば陸上で進学するかだった。

僕は前者だった。
母からの刷り込みで、僕はエリアトップの高校に入ることが目標となっていた。
中学に入るとテストは定量評価され、点数と順位が出るようになった。
一学年200人くらいだったが、1年生時の初回テストは12位、2回目も13位だったと記憶している。
なぜか、「こんなはずはない」と、根拠なく自身の実力がもっと上であると信じていた。

失点が大きかった英語と国語の勉強の仕方を変え、3回目でようやく3位に落ち着くと、やっと満足できた。
以降悪くても5位以内、準備を「やりきった」と感じられた時は、必ず1位を取れるようになった。
完全に勉強の仕方を習得し、わからないことはほぼなくなった。
数学や理科はほぼ毎回満点で、そうでないとがっかりしたくらいだった。
テストは、いかに失点を防ぐかのゲームでしかなかった。

「先生、今日の宿題なに?」
授業が始まって程なくすると、僕が毎回口にしていたことだ。
先生ができない生徒に合わせてゆっくり説明している間に、自分で教科書を読んで理解してしまっていた。
授業は退屈で、余った時間は宿題をするのに使っていた。
おかげで家で勉強することはほぼなく、するとしたらテスト前1週間程度だけだった。

勉強は順調で、12月まで駅伝をやっていたが、トップ校に余裕を持って合格できる自信があった。
行く可能性が0%なのに、滑り止めを受けないといけないことに反発し、担任を困らせた。
「インフルエンザになったって受かる自信あるし、受けへん。」と僕。
「何があるかわからんし、頼むから受けてくれ」と担任。
そう頼みこまれて受験し、滑り止めには特待生で合格した。
授業料無料に加え、月2万円の補助金が出るという破格の待遇だったが、眼中になかった。

もはや勉強でも部活でも成果を出し、無双状態だった。
自分は天才で、この世に不可能なことなどほぼないと信じていた。
それゆえクラスでの振る舞いは唯我独尊そのもので、いかなる悪童をも黙らせる独裁者だった。
今となっては中二病の極みだと分かるのだが、当時は万能感に浸りきっていた。

そんな僕は、地域トップの歴史ある進学校に難なく合格。
当時はまだ掲示板に貼り出すスタイルで、学校まで見に行った。
合格は当然のことで、特段嬉しさもなかった。
とにもかくにも、村社会で最も価値のある肩書を手にしたのであった。

順風満帆な生活が待っていると信じて疑わない僕は、まだ若くて世間知らずで、そして愚かだったのだ…

To be continued…

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